揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

全ての答え

 

 

 

食事量を増やしてだいぶ経つ気がする。

いきなり摂取カロリーが以前の倍以上になったのだけど(以前が少なすぎた)、体の調子はすこぶるよく、意識レベルの低下はかなり疲れたとき以外には起こらない。

なんだかんだで、ちょっと体重が少なすぎていろんなことに支障が出ているなあ、と思う。

それになかなかついてこないのが頭で、今でも自分のことを太っていると誤認しているし、摂取カロリーが増えた今も「食べすぎている」という感覚が抜けない。

自分で思っているよりも摂食障害脳になっていて、びっくりする。

ほんの二年前までBMI19あたりの体型で満足していた私が、過労痩せを経てここまで摂食障害の症状を悪化させるとは思っていなかった。

非常に自分にショックを受けている。

今でも過食衝動には抗えない。

拒食はというと、それは常にあって、食事の最中に「太るなぁ」とぼんやり考えたりもするし、少し体重が増えると「太ったなあ」と思う。

体調が悪くなってようやく食べることにしたけど、未だに拒食もぼんやりとあって、普通に食べている自分に対して罪悪感があったり、もっと摂生しなければと感じたりする。

ヤベー。

 

ヤベーです。

今まで様々な精神疾患を経験してきて、どれが辛いとかなにがしんどいとか、数字とかで表せるもんじゃないんですけど、摂食はマジでつらい。ヤベーです。

どんなに痩せても自分を太っていると誤認してしまう、というのがほんとうにつらい。

私は「摂食障害です」と診断されたわけではないし、「拒食気味」「過食気味」くらいの診断しか出たことないんですけど、それでもこの生きづらさと苦しさ。さすがにヤベー。

元々の性格もあるけど、マジでさすがにこれはちょっと一生続けるのはしんどいっすわ…。

なので、なんとかします。

うまい付き合い方さえ見つかればこっちのものです。

 

久しぶりに過食や拒食のしんどさを体験して思うけど、普通にご飯が食べられるって当たり前の幸せではないのね。

私にとってはとても幸せなことだから、大切にしようと思います。

 

「またご飯でも行こうよ」の、ご飯に行くっていうのがとてもしんどいことなのですが、それは伝わらないだろうなあ…。。

 

摂取カロリーが増えて、人間として過ごせる時間が増えてきたので最近はよく散歩してます。

痩せた姿を維持したいのは山々ですが、日常生活に支障が出るのはいかんのではないかと思う気持ちもある。

けど痩せ信仰がMAXの日本で生まれ育ってしまって、痩せてることがいいことだというのがいかに身に心に染み込みすぎているかということを痛感している。

テレビを見ればダイエット特集、雑誌もネットもそう、いくら痩せても痩せた気にならない。

自分より細い人なんてごまんといるわけで、それに比べたら私はここがよくないだのまだまだ細くないだの、この国の痩せ信仰は世界的にもMAXなんじゃないかと思う。

本来、体型で人間性が決まるわけではないし、相手を選ぶ時も体型で選ぶわけではない。

体型なんて本人のプラスαの部分なのだけども、そのプラスαの部分が、細ければ細いほどいいとされていて、女性同士ではステータスになり相手との張り合いがあり、対男性では「女性は細ければ細いほどいい」みたいなふうに作り上げられている気がする。

 

どんなふうに生きても、極端に言えばこれ以上痩せても太っても私は私、メンタリティの問題な気がする。

根本にあるのは「どんな姿の自分でも愛せるか」ということのような気がする。

それを獲得できるまでは、摂食沼に足を取られることはこれから先もあると思う。

 

やはり最終的にたどり着くのは「自己肯定感」なのだなあとつくづく感じる。

それが得られない限り、私の心の問題は解決しない。

逆に言うと、それが得られたら7割くらいは解決するかもしれない。

幼少期に育めなかったものを大人になって自分で育んで取り返す。

元から持ってる人が恨めしくもなるけど仕方がない。

一生摂食沼で足を取られるよりマシだ。

やるしかない。

 

ナイナイの岡村さんが休養していた時の様子をネットで読んだら、「すべったら全部自分のせいだと思っていたけど、入院してから人のせいにできるようになった」と書いてあった。

私も全部自分のせいにするところは変えられたらいいなあと思う。

そもそもそんな、自分を諸悪の根源みたいに思わなくてもいいのではないだろうか…。。

岡村さんは休養中に、ジャンボチョコモナカを1日3個くらい食べたりしていたらしくて、多分疲れてるから糖分が欲しいんじゃないか、と書いてあった。

他人には「そりゃそうでしょ、疲れてるんだから」と思えるのだけど自分にはなぜか思えなくて、自分に甘くできなくて、自分に甘くすることが許せない部分がある。

それも含めて少しずつ緩めていけたらと思う。

今よりもマシになれるように生きていくしかない。

そうじゃなければ、一生沼の中で足を取られて生きていかなきゃいけない。

それはさすがにつらすぎる。

 

今はジャボジャボと沼に足を取られているけど、いつかそこから上がりたいな、そのためには自分で自分を好きになるしかないな、と最近は強く思うのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

潔癖な私と不潔な私

 

 

 

潔癖症の人はへんなところでこだわるとか、変なところで潔癖を発揮するとか、マイルールが強いとか言うけど、ものすごく当てはまる。

私は軽い潔癖で、自分の中でダメなものやことはとことんダメだが、ダメではないもの、大丈夫なものについてはとことん大丈夫である。

 

例えば。

私は温泉やプールに入れない。

温泉やプールに入れないくせに、職場でお金を触った手でおやつを食べることはできる。

病院は苦手。でもバスセンターやデパートのトイレは使える。

回し飲み、回し食いはできない。でも、箸をつけていない場所なら相手のお皿の食べ物を食べることができる。

自分でも意味がわからなくなることがある。

 

おぎやはぎの小木さんはファンの方と握手ができないらしいが、その理由が菌で、「男子トイレで手を洗ってる人を見たことない」かららしい。

確かに。

女性でもハンカチを持ち歩いてない人とかティッシュを持ってない人、いっぱいいる。

ジェットタオルがあるじゃん?とは言われるけど、なかったらどうなのよ。

アイスがこぼれたときは?

近所のスーパーに行く程度ならハンカチもティッシュも持たないのはわかるけど、遊びに行くときにハンカチもティッシュも持ち歩かない人、よくわからない。

そういう人に限って「貸して〜」「あなたなら持ってると思ったから持ってきてない」って言うんだけど、マジでクソめんどいことがある。

貸してもらう前提で話を進めるな。

私もたまたま持ってなかったら落胆するな。

貸してもらって当たり前、という思考で相手と接するな。

私の方からも、貸してあげて当たり前、となると面倒なこと極まりないのだ。

 

たかがティッシュとハンカチでしょ?

というお気持ちもわかりますが、ハンカチは2人分の水分を吸い早めにビショビショになるし、ティッシュだって2人分一気に無くなると底を尽きるのが早くなりますからね。

なんでも借りる前提で生きてる人、ほんとめんどくさい。

貸さないぞ、私は意地が悪いから、貸してやらないぞ。

ゆるゆるになって垂れたアイスで服も手も汚れてしまえ。クソッタレ。

私はあなたのお母さんじゃないぞ。

 

アルファツイッタラーの方で、小学生女児の母親の方が、「テストの点数よりハンカチを持たせてあげて!」と呟いていらして、マジそれな、と感じたことがある。

私に常にティッシュを借りる友人は、市内で上から二番目の進学校に通っていた。

街でも有名な塾に通い、都会の大学に進学した。

さらに実家が太い。お金持ちのお家である。

一方で私は市内でも柄の悪い高校に進学し、そんなに裕福な家庭で育ったわけでもない。

進学校に通っていても、実家が太くても、「ハンカチとティッシュを持ち歩く」という、最低限のことが身についていなくて、私は時々「この人どういうことなんだろうな?」と疑問に思ってしまうことがある。

 

話がだいぶ逸れたけど、潔癖な私は「潔癖だから嫌だ」と相手からの要求を断ることに躊躇いがあり、それは「あなたが汚いから嫌」と言っているように聞こえないかなあ、という気持ちがほんの少しあるからである。

実際に、温泉に誘われた際に「私は潔癖だから温泉には入れない」と断ったとき、相手がキレたり首を傾げたこともあり、「潔癖のマイルール」は、潔癖ではない人からしたら理解し難いことだと思う。

あと、対人関係の中で「相手が不潔」になってしまうことは男女関係なく存在する。

人としての関係を築く際にどうしても「潔癖だからできない」ことは出てくる。

温泉もそうだし、一緒に大皿のご飯を食べることも、美味しい飲み物を一口ずつシェアすることも、私にとっては「相手が不潔」だからできない。悲しき潔癖の性である。

 

いつか恋人ができたらいいな、と思うものの、いやいや待ってめちゃくちゃ不衛生なこともやらなきゃいけないじゃん、と思うたびに思いとどまる。

精神疾患は年齢とともに落ち着きを見せる病気である。

まずは歳を重ねて、病気が落ち着いて、他者にも自分にも優しくできるようになり、ゆとりを持ちながらの生活を手に入れる…という土台がなければ、私にはとてもじゃないけれども、恋人を作ることは難しいと思う。

よく、「やってみればいい」と言われることもあるけれど、やってみてダメだったときは?

私の心がズタズタになったとき、再起不能になったとき、年単位での療養が必要になったとき、あなたは責任を取れるわけ?と問いかけたくなる。

他人は無責任だ。私の人生は、私にしか責任が取れない。

最初から「できない要因」が9割を占めていることをわざわざやって、その結果体や心を壊す可能性がある、ということを無責任に勧めてくる人に対して、だいたい私は「うるせぇ黙れ、くたばれ」と思っている。(文にすると過激だからくたばれはやめようと思う)

 

重度の潔癖症で、同じ番組に出演している芸人の汚部屋に行った時に何度も嘔吐を繰り返した芸人さんを知っている。

「結婚できない」とその人はおっしゃっていて、それはもう、今のところ私も同じである。

潔癖症はマイルールが強く、他人が不潔だったり、汚く感じられる病気でもあると思う。

自分が、その「他人」に当てはめられると考えてみてほしい。

毎日お風呂に入り、部屋はピカピカ、髪もサラサラ、服にも毛玉が付いていない、靴も磨いている。

そうであっても私からしたら「不潔」「汚い」「触らないでほしい」「キモい」「なんかよく分からないけど近づいてこないでほしい」「距離が近すぎてキモい、気分悪い」という対象である。

潔癖を理解することと、潔癖の人と共存することは、至難のわざである。

 

私は周りの人に潔癖をあまり話したりはしないが、潔癖を前面に出してしまうと「汚い」「キモい」は必ず言葉にしてしまうので、黙って我慢していることが多い。

さすがに嫌すぎることは断ったりするけど、「なんで?」と聞かれないような言い回しで断る。

潔癖だけど、人と共存したい気持ちもわずかにある。

難しいことである。

 

 

 

 

 

 

健やかに生きること

 

 

 

 

 

 

体調不良があって、ご飯をしっかり食べる生活に変えて、一週間以上経っている。

なんだかんだで、ご飯をきちんと食べる生活が続いている。

どうでもいいことは長続きしない、そもそもやらない私からすると、それほど切迫したことだったのかなと感じる。

ただ普通に、朝起きて、目が覚めたらご飯を食べて、夜は眠る、という生活は、十代の終わりにやめてしまっていたので、ものすごく健やかにいきている気がする。

 

約10年ぶりに規則正しい生活にしてみたのだけれども、かなり調子がいい。

一番暖かい時間に散歩をしたり、太陽の光を浴びるだけで、かなり精神的にしっかりしてくる。

考え事はするけど、「過去をほじくり返しても何ともならない」「過去と他人は変えられない」というところにたどり着き、かなり前向きに考えられている。

もう春がきているから、暖かくなって元気なのもあるとは思うけど、それでもこのポジティブさはすごい。

 

前職の上司に、会社を辞めたい旨を泣きながら伝えた際に「お日様の光が浴びられない」という言葉を無意識のうちに発していたことがある。

上司はそんなことには取り合わず、その言葉を受け流して話をしたが、私にとって「お日様の光が浴びられない」というのは死活問題に近いなと感じる。

どんなふうに落ち込んだとしても、体調が悪くなったとしても、必要なのは薬でも他人でもなく、「お日様の光」だ。

人間らしく、健やかな、夜は眠り朝は起きるという生活が、私には必要だったのだとしみじみと思う。

 

今まで、どこかで、自分には「規則正しい生活をする権利がない」と思っていたことに気づいた。

この「◯◯する権利がない」シリーズは、私の中にはまだまだたくさんあると思う。

その中の「dプログラム(自分に合った基礎化粧品)を使う権利がない」「ハンドクリームを塗る権利がない」「自分に合った洗顔石鹸を使う権利がない」「ナチュラルメイクをする権利がない」「茶色いマスカラを使う権利がない」「自分に合った化粧品を使う権利がない」「パンを買って食べる権利がない」「自分にお金をかける権利がない」をなんとか乗り越えてきたのだけど、今は「規則正しい生活をする権利がない」を乗り越えている途中だ。

この、権利がないシリーズの呪いは凄まじく、なぜそんなことになったのだろうかと絶望してしまうことも多いのだけれども、親がとにかく「安いものは最高、高いものは最低」という価値観の人なので、それもひとつあると思う。

私の親は何か欲しいものがあると必ずダイソーへ行く。

親のマフラーも靴下もダイソーのものだ。

うちの親に関しては、ライブ遠征や旅行に万単位でお金をかけられるので、貧困からくるものではないと感じる。

実際に、「3万あったらライブ行くわ」と豪語することもあるし。

私としては、いやいやその前に身の回りのものを揃えてくれ、という気分だが、他人を変えることはできないので、変な影響を受けないように共存していくだけだ。

私は実際に、しまむらで服を買っていただけなのに「◯◯(本名)は金がかかる」と親戚からお怒りの声を頂戴したことがあるので、家系的に「そういう家系」なのだろう。

今でもおしゃれを楽しむ年頃の親戚の女の子に対して「いつも違う服を着ている」「金がかかる」などと悪口を言ったりしている。

歳を取っても人間は、優しくなるどころか変わらないのかもしれないなあ、と思う。

 

話が逸れたけど、そういうわけで、私にはたくさんの「◯◯する権利がない」という呪いがかかっていた。

少しずつ解除しているのだが、「規則正しい生活をする権利がない」という呪いが姿を現した。

これは、私が病気だから生まれた呪いである。

 

睡眠薬を飲んでいるのと、体調が悪かったことで、私は学生時代から朝が苦手だった。

低血圧だったということも関係していると思う。

朝起きられないとどうなるかというと、9時始業に間に合わないので、普通の9時6時の仕事に就けないのだ。

それでどうなったかというと、私は「遅番」で働くようになった。

生きていくためには仕方がない、お金を稼がなければならず、生活を夜に傾けた。

お昼の2時から働き、10時を過ぎて退勤。

帰宅するのは11時で、そこから夕食。

お風呂に入って自分の時間を持つと日をまたぎ2時になっていた。

もう、生きていくためにがむしゃらに必死で働いた結果なので、これが悪かったとは全く思わない。

むしろ、よく頑張った。

正直、辛かった。

周りの子は6時に仕事が終わるのに、次の日朝から遊んでいるのに、私ときたら夜型になってまで働いて、友達と会う時には無理をして朝起きなければいけなくて、友達に会うために無理をするということがとても辛かった。

生きていくために、お金を稼ぐためにはそうするしかなくて、「私だって普通に生活がしたい」「夜は寝て、朝起きる生活をしたい」「みんながうらやましい」という気持ちを押し殺した結果が「私には規則正しい生活をする権利がない」という呪いだ。

酸っぱいブドウのような話だ。

 

今、少しずつ自分の中にある呪いと向き合っているけど、自分で自分に植えつけた強烈な呪いの除染作業のように思える。

もう過去のことは過去だ。

あの頃死ぬ気で頑張ったことを、無駄だったとかは全く思わない。

死ぬ気で頑張って、それで当たり前とされて、悔しかったことも、無職の同級生の親から「あなたみたいに☆☆(同級生の名前)もきちんと働いてくれたらいいのだけど…」と言われ、これだけ死ぬ気で身も心も削らなければきちんと働いていることにならないのか、と絶望したことも、もう過去のことだ。

今はもう、呪いの除染作業に入っている。

根深く染み込んでいるので大変な作業だけど、最初のハードルを変えればあとはなんとかなるということだけは分かっている。

 

若いころに憧れて、憧れたけど手が届かなくて、手が届かないから惨めな思いをした「規則正しい生活」を、歳を重ねた今、手にしようとしている。

健やかに生きる権利がない、なんてことは私が作り出したまやかしであることを、ゆっくりと受け入れていくことになる。

酸っぱいからあのブドウはいらない、と言っていたのに、ブドウに手が届き、しかもブドウがとても甘くて美味しいことに、気づこうとしている。

甘美だと思う。

酸っぱいブドウは酸っぱくない。

手に入れられないことなんてないのかもしれない。

 

もしかしたら、愛し愛されることについても私はどこかで、「酸っぱいブドウ」にしてしまっているかもしれないなあ、とも思う。

男女の愛もそうだけど、人間対人間としての愛も、そうやって遠ざけてきたところがあるのではないかと、なんとなく思っている。

 

辛かった過去よさようなら、どうか私の手を離れて、遠いどこかで幸せに生きておくれ。

私はこれから先、寿命が来るまで生きなければならないから、どうか、どうか成仏してほしい。

 

 

嵐のような若いころが終わり、穏やかな時間が始まるのを感じる。

やまない雨はない。

いつかの未来の私の幸せのためにも、今はとりあえずこれからすぐにお風呂に入って眠らなければならないので、皆様もどうか健やかに生活ができますように。

「夜は眠り、朝を待つ」という歌詞が木村カエラのbutterflyの中にあるけど、あれは親友に向けて「健やかに生きて幸せになってほしい」と語りかけているのだなあ、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カムバ、カムバ

 

 

 

 

つい先日DA PUMPのシングルリリースがありまして、私の手元にもCDが届いています。

いやもう、ほんと、なんて美…(び…です)

皆さんご存知USAがめちゃくちゃド派手な感じだったのですが今回はしっとりというか、シュッとしてる感じ。

ISSAは歌が上手いなあ。

あとは、個人的にKENZOのファンになりかけている。

初回盤の特典映像見て…。

 

あと。あと。

あともう少ししたらボムちゃんという名の歌姫がカムバするので(韓国アイドルはリリースの時にカムバって言う)も〜〜〜〜3月は喜びの舞を踊っています。

ボムちゃん、8年ぶりのカムバです。

いやー、長かった。

2NE1も解散しちゃったし、ボムちゃんはYGを辞めて、その前にミンジも辞めちゃってて。

永遠に伝説のガールズグループになっちゃって。

正直ボムちゃんはカムバできるのかどうなのか、最近はずっと気になってたから嬉しい!

 

ティザー映像が公開になったんだけども、紛うことなき歌姫感。

小さな女の子がディズニー映画で夢見るお姫様ってこんな感じなんじゃないかな、と思うほどにお姫様。

 

ボムちゃん、ビジュアルのお姫様感の強さや本人のお姫様感で若い頃は苦手意識があったけど、歳を重ねるごとになんか大丈夫になってきて一気に好きになった。

ボムちゃんを好きになってから気づいたけど、ボムちゃんへの苦手意識は、いわゆる同族嫌悪だったりした。

あー、自分に似てる人だからなんとなく苦手だったんだなー、自分の直視したくない部分を表に出してるから苦手だったんだなー、と、歳を重ねてから気づいた。

で、いざボムちゃんを好きになった時には、2NE1は活動休止みたいになってて、諸行無常を感じましたね…。

若い頃に、2NE1の中ではCLとミンジが好きだったのは、紛れもなく私自身が強い女でありたかった証拠なのですが、歳を重ねるごとに「あれ、私そんな強くないな」と自覚し始めてから一気にボムちゃんもダラちゃんも好きになった。

強い女でありたい時、だいたい推しは強い人間なんですよ。

弱い自分を認められた時、だいたい推しには自分のような弱さがあるんですよね。

私の経験談でしかないんだけど。

 

若い時に、強い女であろうとしたことが無駄だったとは思わないけど、身の丈に合わなかったな、結局強い女には手が届かなくてかすりもしなかったな、ということをつくづく思う。

そうではない自分の良さに気付くために遠回りして、やっと今たどり着いて、さてこれからどうしようかなという気分。

強くありたいと思い続けて生きてきたけど、そんなに強くならなくても私は私でいいところがあるし、無理に強くなくても、そのままでいいんだよ。

 

二十代前半の頃だったら見向きもしなかったであろうボムちゃんのカムバを心から楽しみにしている私は、少しは強くない自分のことを好きになれたのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痩せたからヨカッタ

 

 

 

 

 

過労で痩せてから、「痩せたんだからいいじゃん」「痩せて綺麗になった」「痩せてよかった」などのお言葉をいただくようになり、もうそれに関しては一言

 

ん な わ け ね え だ ろ

 

に尽きるんですが。

 

よくないんですよ。

ホラ、女の人はイロイロあるじゃないですか、止まってはいけないものとか、女性特有のホルモンのバランスとかさ。

あるじゃないですか。

そこまでそうなってまで痩せてたらアカンみたいなこと。

あるじゃん。分からねえのか?

「痩せたからヨカッタ」じゃねえんだよ、様々な不調を来たしながら痩せてたらそれはもうスリムとか痩せではなく栄養失調だよ。

まだ30歳にもなってないのに、るい痩ですよ。

要介護のおばあちゃんかっての。

 

あーもうムカツクムカツク、何にムカつくかというとそれでも痩せていたいと思ってしまう自分に対してもムカついている。

確かにいろんなところで不調は出てきてるけどそれでも痩せていたいよ。

心の治療が必要かもしれないなあ。

 

そもそも、痩身は美とされる世界、とりわけその風潮が厳しい日本に生まれて、その価値観に飲み込まれないでいることは難しいと思う。

痩せる必要がない健康体の人ですら「痩せたい」「ダイエットしてる」などとのたまうし。

いや、あの、極論なんだけど、痩せたところで人生そんなに変わらないし、痩せてるから美しい、素晴らしいなんてことはない。

私も、痩せたらなんか変わるかなって思ってたけど、痩せたからって自分を取り巻く世界は変わらなかったし、結局自分の精神状態次第だ。

 

痩身は美、よくよく考えたらめちゃくちゃ腹が立つ言葉だと思う。

だいたい、それを口にする人々が皆、揃いも揃って痩せているわけでもないし、普通に自分より太っている人からその言葉を投げかけられることもある。腹が立つ。

なにより、その言葉に日々毒されていく「痩せた自分」にも腹が立つ。

痩せたからって人より優れているとか、美しいなんてことはない。

ないはずなのに、痩せたことでどこか自分が、人より美しく優れているような気分に錯覚させられる。

もう心がヤバいと思う。ここまできたら終わりだと思う。精神科で相談しよう。。

 

一番小さいサイズのデニムを選ぶことも、それすらも裾がぶかぶかなことも、ほんとうは誇ることではなくて、この飽食の時代に栄養失調だということで改善するべきことだと思う。

時々街中やコンビニで女性からじっと見られることがあるのだけど、それはいい視線ではないんですよね。

私も痩せる前は、街中で見つけたガリガリの人をガン見していたし、多分そういう視線だと思う。

あんなに細いデニムの裾がぶかぶかってどういうこと?というような視線。

それって、なんか恥ずかしいことのような気もする。

 

「太りたい」と「痩せていたい」の狭間でゆらゆら揺れている。

どちらかに振り切らなくても、不調が治った体重でキープすればいいと思う。

私の問題はそれよりも壊れてしまった心のほうで、日々私の中に染み込んでいく「痩身は美」という価値観を脱ぎ捨てないと、何も始まらないと思う。

痩身は美。痩身は美…痩せていると美しく優れている…痩身は美…

 

ん な わ け ね え だ ろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご飯の大切さ

 

 

 

 

最近、「夜は寝て、朝起きて、朝ご飯を食べて、昼夜もしっかり食べる」ということを心がけている。

なぜそんな、人間としての基礎のことを心がけようと思ったかのかというと、食べなすぎて体調不良を起こしたからだ。

 

お風呂から出た後に「目の前がぼやけて見えなくなる」という不調が起こるようになっていた私は、定期診察で精神科のお医者さんに「最近寝る前に目が見えなくなっちゃうんですけど」と事情を説明。

すると「それは意識レベルの低下が起こっているんですよ」と説明を受けた。

意識レベルがなんなのか分からなかったので家に帰って調べたら、意識のレベルのことだった。バイタルサインとも言うらしい。

とにかく、なんかよく分からないけどお風呂を出た後は体が限界を迎えているらしいので、夜更かししないで寝ようと思った。

 

ある日、ムシャクシャしていつもの食事にプラスでお菓子をたくさん食べた。

いつものようにお風呂上がりに横になってぽやーっとしていても、目の前がぼやけない!意識レベルが低下しない!

おやおや、まさかこれはカロリーを摂ったからかな?と思いすぐにカロリー計算アプリをダウンロード。

その日食べたものを入力すると、いつもの倍くらいカロリーを摂っているではありませんか。

…食べないから弱ってたんだな…。。

いつも朝起きることがどうしてもできないのに、カロリーを摂った日の次の日は朝きちんと目が覚めることにも気づいた私は、カロリー計算アプリでカロリーをきちんと摂ったかどうか確認しながら、「しっかり食べて生きる」という方向にシフトチェンジをしましたとさ。

めでたしめでたし。

 

この飽食の時代に栄養不足とか恥ずかしい。

大量廃棄が問題になる程の食料があるのに。。

なんか、細くて食べない人イイナイイナっていう風潮もあるらしいですが、自分がそっち側に行って思ったのは、「思ってたより恥ずかしい」ということでした。

戦前戦後ならまだしも、今もう2019年ですよ。

ここは一応先進国ですよ。(低体重児出生率後進国並みらしいですが)

もう、めちゃくちゃ恥ずかしい。

これからは食べて生きるようにしよう、と強く思いました。

それからは結構食べてます。

朝起きた日は朝ご飯も食べるし、お昼と夜も無理のない範囲で食べるようにしています。

よく食べ始めて気づいたんですが、人間って食べてもそんなに太らないんですよね。

でも人によるのかな。

普通に食べてただけで100キロになった人とかもいるし…。

でもまあ、人並みに食べただけではそんなに太らないんですよね。

なんか、ご飯って大切だなあってしみじみ感じております。

 

正直、お風呂上がりに目が見えなくなってた時は食欲がなくて1日800キロカロリーくらいしか摂ってなかったです。

それは、起きれない→朝ご飯を食べないからパワーが出ない→食べるパワーもない→とりあえず適当に食べる→弱る→弱ったまま寝る→起きれない…みたいな無限負のループに陥っていて、弱りすぎて活動時間が少なかったから食べなくて、食べないから朝起きれなくて活動時間が短い、みたいな感じでした。

食べる生活にすると、めちゃくちゃ回復しました。

まず、朝起きれます。

お昼もたくさん食べれるし、夜も食べれます。

朝起きるから活動時間が長くなって、暇な時間が多くなるので散歩に出かけたりすることも増えます。

調子が悪くて横になっていたとしても、朝から起きてるから思ってるよりエネルギーを使っている。

人間の仕組みを感じますね。

 

まず食べることから始めてみたけど、結果的にいい方向に転んだなあと感じます。

ていうかほんと、食は命に直結しているので大切にしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高望み

 

 

 

 

 

 

普段生きていると、「私は今まで生きてきた中でひとつでも高望みしたっけ?」と思うことがある。

普通に学校に通って部活をして、進学して卒業して、奨学金を返しながら働いて、そうやって普通に生きたかっただけなのに、それが叶わなくて、所謂世間一般の普通の枠からはみ出てしまって、いつの間にか私にとって世間一般の普通の生活というのはとても手が届かないものになってしまっていた。

 

お金がたくさんほしいとか、広い高値の土地が欲しいとか、高い車がほしいとか、国会議員になりたいとか医者になりたいとか、そういう望みって一切持ったことがなくて、普通に、普通に生きたかったというだけなのに、普通の生活すら高望みになってしまった。

私、なんか高望みしたっけ?

高望みしてつまずいたわけじゃないし。

普通の生活って、私にとっては身の丈に合わないことなの?

なんで?ねえ。

 

ということをぐるぐる考えてしまう。

普通に、普通に生きるっていうのは、意外と難しい。

そして、ハードルが高いことだと感じる。

「普通の人」になるには、それなりの高い条件をクリアしないといけないように感じる。

それってマジでガチでヤバいことじゃない?

「普通の人」がハードルの高いことなら、普通の家庭もハードルが高くなっているんじゃないかと思う。

サザエさんクレヨンしんちゃんも、今のご時世では高所得、勝ち組の家庭だという意見を読んだことがあるけど、それってマジでヤバいことだよね。

私のように圧倒的に不利な病気を持ってしまった人以外にも、「普通の暮らし」とか「普通の生活」「普通の家庭」に水準の高さを感じる人っていると思う。

そして、一回普通のレールから外れたときに救済措置とか救ってくれる場所、縋る場所みたいなものがなさすぎて、そのまま何年も時間が経ってしまって気づいたら歳を重ねていた…とか、もう、私みたいに病人でもそんなの普通にあるのに、健康体の人までそういう感じになり始めたらこの国は危ないんじゃないかと思う。

国というか、なんと言えばいいんだろうか。

 

私は病気で、履歴書の空白期間はドクターストップや寝たきり療養がほぼ全てなので説明がつく。

でも、説明がついても、きちんとした理由があっても風当たりってめちゃくちゃ強い。

これ、普通に健康な人だったらどうよ。

どうなんだろう。わからんけどさ。

 

なんか、私個人の状態もあるけど、普通に、っていうことがハードルが高いよなあって感じることが多くて、私が望んだ普通も、実は私個人から見たら高望みだったのかもね…と怖くなる。

まあ、もう障害者手帳を持っているので本当の意味で普通の人にはなれなくなったけど、やっぱりまだまだ未練はあるし、なれるものなら普通になりたい。無理なんだけどね。

 

マイナス要因があっても落ち込んだまま死にたくない、面白おかしく生きたい、笑っていたい、とは常々思っているけど、明るく生きていると「病気には見えない」「大丈夫でしょ」と言われてしまって、それはそれでうまくいかないことがある。前職がそれで潰れた。

 

え〜〜〜〜〜〜〜〜なにこれ難しすぎる……。。。

人生早く攻略本出てくれよ…。

 

 

高望みはしないのでせめて日常生活ができる体にしてくれ神様〜〜いるの?いる?いない?あっ…いない、そうか…

今出かけてるの?エ〜いつ帰ってくるの?明日?ウンわかった、また連絡するね!

ところで神様、アイス好き?今度ハーゲンダッツ新作出るよ?エッもう食べたの?!どうだった?エ〜いいな、おいしいよね芋シリーズ…

うん…私はあんまり、なんか調子よくなくてアイスチャンス逃した…うん…また来年かな…アハハ…

エッ神様ちょっと待って?!こんなのもらってもいいの?!え?!マジ?!ヤバくない?!?!くれるの?!?!ワーーーーー嬉しい!ありがとう!ちょっとおいしいもの食べる!うん!元気出た!ありがとう!

私が死なないようにだけ気をつけといて!だいたいなんとかなるから!とりあえず今日は白菜とにんにくもらったから豚バラ肉買って無水油鍋やるわ!じゃあまたね!バイバーイ!