揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

お洒落で可愛い

 

 

 

 

最近はずっとデニムに薄いニット、丈が短めのピーコートにマフラーかスヌード。足首まで隠れるブーツ。

そういう出で立ちで家の近くを散歩したり、少し遠くへ歩いて行ったりしている。

一昨年と去年の冬に買ったワイドパンツやオールインワンなどのお洒落着は、人と会う時にしか着ていない。

 

お洒落で可愛い、は、心身ともに健康であることを前提とされている服装だと思う。

お洒落で可愛い格好をして、今の、心身ともに磨耗している私でいられるかというと違った。

体の冷えや足元のおぼつかなさ、注意力散漫で集中力もない今の私には、スカートやワイドパンツやハイヒールなんかの「お洒落で可愛い」は、とてもじゃないけれども、危なっかしい。

いつどこで何があるか分からない。

何があるか分からないから、本調子ではない今は、何かあった時に走って逃げられる格好をしていたい。

 

ということで、スタイルが良く見えるデニムを購入。

セールで半額だったのと、履いてみたかったメーカーの物でたまたまサイズがあった。

極端に痩せてから、ネットでしか服を買えなくなってしまった。

ごくたまに、実店舗にあるサイズがちょうどいいことがあるけれども、もうほとんど、今の私にちょうどいいサイズの服はネット上にしかない。

住んでいる場所がまあまあ田舎なのも関係していると思うけど。

でもほんとに、極端に痩せてしまってからは、ネット通販のありがたみをひしひしと感じている。

服を買いに行く服がない、という言葉があるけれども、これもそのうち死語のようになるんだろうか。

自分の体のサイズさえ分かっていれば、好きな色の好きな柄の服を親指を動かすだけで買える時代がきている。

 

 

また元気になったら「お洒落で可愛い」をやってみるけど、今はもう、ちょっと無理だ。

最低限の装いで外に出ることで精一杯。

お洒落な人を街中で見かけるたびに「あっ、かわいい」と思う。

けれどもその可愛いは、適度な露出や歩きにくい服と靴で作られていて、そういうのは今の私には無理なことを痛感させられる。

あと少しで二十代が終わるというのに、残り少ない二十代をなぜ精一杯着飾ることもできないのだろうかと悲しくなることもある。

 

 

また元気になったらいろいろやればいい。

元気になるまでは、デニムやらスニーカーにこだわってみればいい。

元気がないときは元気がないときで、こだわったら楽しいことがたくさんある。

そのままの姿でいても、スカートを履くようになっても、きっと私は私の選んだ可愛い服を着るんだし。

 

しかし、デニムにニットの生活を続けているけれども、ラクだね〜。

お洒落できないのが歯痒いとは言えども、この楽ちんさよ。

最低限の装いで身軽に自分を楽しめるというのは意外といいことなのかもしれない。

身だしなみを整えるのは最低限の相手へのマナーだと思っているけれども、その最低限が守れていれば、私ももう無理にスカートやパンプスを履くのをやめてみてもいいかなという気持ちになってくる。

まあ、人と会う時の戦闘服と私生活の実用服を分ければいい話なんだけど。

デニムにスニーカーも、スカートにパンプスも、どちらもいい。

これからの理想は、戦闘服を何パターンか持っておいて、実用服にこだわること。

私生活を大切にすること。

スカートを履いていても、デニムを履いていても、私は私で、外の包装紙の柄で対応を変えてくる人間なんてお断りだ。

でもまあ、最低限やってないと男性も女性も露骨に扱いが変わることがあるので、ほんとに最低限はやります。

男性で服に興味がない人はギリギリ許される感じがするのに、女性で服に興味がないとアウトな感じになってしまうのはなぜなんだ。

なぜなのか分からないけれども、それは昔からずっと感じていて、服に興味がない男性も女性も知り合いにいるけれども、見た感じ、女性のほうが世間からズレてる感じが強い。

あれはなんなんだ。

話が変わってしまったけれども、ほんとにあれはなんなんだろうか。

女性のお化粧やお洒落は必須科目ではないのに、やらないと周囲の人間からの扱いが変わったり、世間からズレている感じがする。

ほんとにあれはなんなんだ。

私も同調圧力に知らぬ間に飲み込まれていたのだろうか。

 

 

だらだらと書いたけれども、とにかく病状的に着飾っている場合ではないので、デニムにスニーカーを極めますよ、と。

なんかシンプルで色が濃くて脚が綺麗に見えるデニムを探し当てようと思う。

人生で一回、すごくお高いデニムを履いてみたかったので、今この機会にやってみようかなと思っている。

なんだかんだで痩せたしな。今、成人してからの人生で一番痩せてるし。過労痩せとはいえ楽しまないとな。

痩せてからシンプルな格好でもそこそこいろいろ大丈夫なので、「これが、痩せたらあえてのUNIQLOってやつか…!!!」と実感している。

まあとにかく、私の意思とは反するけれども痩せましたので、シンプルなデニムで生きてみたいですね。

せっかくだしちょっとデニムもこだわりましょうね。

今までなんだかんだでGUのデニムが一番履き心地が良かった人間だから、お高いデニムってどんなもんよという気持ちですよね。

 

 

お高いデニムを履いてみて何を感じたいのかというと「GUのデニムと何が違うのか」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過ち

 

 

 

oneman live と書いてあったのを

 

「オネマン…オネエマン…?……ワンマン!」

 

というふうに読んでしまった。

 

私は英語をきちんと学んでいないので、こういう読み間違いみたいなのがよくある。

ものすごい頻度でこういう間違いをしているのだけど、義務教育って大切なんだなあと痛感する。

 

そのいっとき恥ずかしい思いをして、自分の英語力のなさを恥じ、英語教育の大切さを痛感するだけで、そのあと特に学び直すこともなく、忘れた頃にまた痛い思いをする。

人間は過ちを繰り返す生き物です。

 

 

 

追記

 

わりと最近は「いつ消えても同じだよ」みたいな荒み方をしていたけど、なんやかんやあって「生きなければいけない」という感じに方向転換されているけれども、これもまた過ちとして私がよく繰り返してるやつです。

人は皆何かしらの過ちを繰り返しながら何年も何十年も生きていくんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もらう

 

 

 

親戚のおばさまが年末に御墓参りに行った際に、故人から嫌われていたという話をしながらお参りをしたら、その御墓参りの後からずっと首や肩が痛くて、美容院のシャンプーすらできないほどらしい。

おそろしい話である。そして、めちゃくちゃわかる話である。

 

私はめちゃくちゃにもらいやすい体質で、霊的な何かにも憑かれやすい。

そういうものが見える人に見てもらったことがあるのだけど、「優しいからなんとかしてくれそう」という理由で霊的なものがついてきやすいらしい。

私の場合は人間にもそれが当てはまる。

「なんとかしてほしい人」からめちゃくちゃに好かれるのだ。

 

そういう人と出会ったときにどういう話になるかというと、「私には兄がいたけれども、兄は生後数日で亡くなってしまった。両親がもう一人子供が欲しいと思って兄の後に生まれてきたのが私だ」とか、「弟が自閉症で、私は女だから家系を絶やす許可を父親から得ている」とか、「弟が大学に行きたいと言っているから姉の私が学費を全額支払わなければいけない」とか。

個人的に体験してきた中では「生い立ち」「過去のいじめ」「他人の悪口」「僻みや妬み」の話がめちゃくちゃに多かった。

普段仲良くしている人への悪口をいきなり一方的に聞かされることもあった。(いや、普段遊んだりしてて仲良いじゃん。知らんよ。)

そういう「重すぎる話」になることが多くて、その度に私はかなりのものをもらってきた。

 

重すぎる話って、いきなり他人にぶちまけていいものではないと思う。

なぜなら、重すぎるから。

誰も他人の不幸なんて背負えないんですよ。

みんな自分の苦しみや悲しみだけで手一杯で、自分のことすら手に負えなくなった人が、たまに通りすがりの人間を殺してしまうくらい、この世の人間は疲弊している。

私もそうだし、みんなもそう。

だからそんな、自分のことをなんとか成り立たせている状態の時に、いきなり他人の過去や生い立ち、その人の不幸の全てをポンって投げられたら、受け取れない。

受け取って一緒に考えてあげられたらいいのかもしれないし、それを求められてるのはわかるけど、人間ってみんな疲弊してるから、そこまでの余裕ってないですよね。

それができるのがカウンセラーや精神科医なので、もうそこはプロに頼ってもらわないとどうにもならない。

 

「もらう」って不思議な現象で、目の前の人に自分の魂の何かを吸い取られている感じで、ただ向き合って話しているだけなのに肩や首が凝り始め、頭が痛くなり、「あれ、なんか疲れてきた」とか感じ始めてしまう。

相手と別れたとき「あー、やっとひとりだ」という謎の安心感に包まれる。

私はもらいやすい上に人と一緒にいることですり減るタイプだから、人付き合いに対して「やらなくていいならやりたくない」と思っている。

 

生い立ちや家族の不幸、過去のいじめ、昔勤めていたブラック企業の話。

話し始めたらきりがない。

お湯が沸騰するように相手の話は次々湧いて出て、話切ったら相手はすっきりしている。

一方、私は首や肩が痛い。

そういうのがしょっちゅうだった。

過去の記事にも書いたけど、人間は基本的に「話を聞いてほしい生き物」だと思う。

それを悪いことだとは思わないけれど、いきなり過去の重い話になったとき、私はどう対応すればいいのかわからない。

うんうんそうだねと相槌は打つけれども、根本的に解決できるほどの人間でもない。

相手はただ聞いてほしいだけで、解決を求めていない場合もある。

 

もらいやすい私ができることは、「あ、これはちょっと」と思ったときにすぐに身を引くこと。話を聞かないこと。

「連絡を取れないほど忙しいことをアピールする」というのも効果的らしい。

 

最近は、「あ、これはちょっと」と思ったときに姿を消すようにしている。

相手の視界から消えたり、相手に挨拶しないで帰ったり。

話したい人、聞いてもらいたい人は、相手を見つけるのが上手いと思う。

見つけられないようにしていても、いつのまにか相手が目の前で話していることが多々あって、ちょっと怖い。

 

今は体調がそんなによくなくて人の話を聞かないからか、変な人に見つかることが少ない。

去年、ライブ会場でいきなり自分のことを話し始めた人に遭遇したくらい。

今大丈夫だからって、この先も大丈夫とは限らない。

私の場合は、体調がよくてニコニコして趣味を楽しんでいる時が一番危ないのだ。

調子がいい時ほど、スーパーで知らない人から話しかけられたり、コンビニの店員から一緒にライブに行きたいと言われたり、信号待ちの時にいきなり大声で話しかけられたり、という出来事が多発する。

今年以降、体調がよくなるにつれまたそういう人に見つかるのかと思うと、少ししんどい気持ちになる。

よく見分けるよなあ。ほんと。。

 

回復するにつれ、もらうことが多くなるから、気をつけていきたいと思う。

もらうということは、私に少し余裕があるということで、今まで私はその余裕を人の話を聞いたりして使い切ってしまっていたけれど、もうそんなことはやらないからな!という気持ちである。

私の余裕は私のために。

今年は絶対にもらいたくない。

人間に絶対はないけれど、とにかく、できるだけ余分なものをもらうことなく生きていきたいと思う。

もらいやすすぎて人混みも苦手なので、パワーストーンのブレスレットでも作ろうかなという気持ちになっている。

以前の勤め先の美容部員の気の強い女性が、腕にたくさんパワーストーンをつけていて、「ああ、こんなに強い人でも、もらうことがあるんだ」と安心したことがある。

気の強い彼女がつけているのだから、「もらう」ということに対して何らかの効果はあるのだろう。

その人からしたら「つけないよりマシ」というくらいの話かもしれないけれど。

「もらう」ことが多くてすぐに疲れてしまったり肩や首が痛くなったりするけれど、少しはマシになるだろうか。

 

 

しんどすぎてもらっている場合ではない時期が終わって、元気になって遊びに出たり、趣味が楽しくなってニコニコしていることが増えた時が一番そういう人が寄ってくる。

今年来年、再来年までは、周りに集まる人をよく見てみようと思う。

そして無理な時はブロックする。

私はほんとにブロックが身についてないんだよなあ…。。

ブロックブロック!ベンザブロック!

身につけていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実行委員会発足

 

 

 

 

最近、料理のおにいさんリュウジさんの無水油レシピを作っては食べ作っては食べを繰り返している。

繰り返しているのです。無水油シリーズ、めっちゃおいしいのです。

私はアレルギーが多くて外食が苦手なので、こうやって自宅でめっちゃおいしいものを手軽に食べられるのが、めっちゃ嬉しいのです。

特に旨塩油そば。すごい。めっちゃおいしい。

ラーメン屋さんでラーメン食べたら蕁麻疹が出る(ラーメンアレルギー?)ので、自宅でこんな爆弾みたいな食べ物が食べられてめっちゃめっちゃ嬉しいのです。(旨塩油そばは蕁麻疹が出ません)

嬉しいので、めっちゃめっちゃ作って食べて、そうやって嬉しくなっているのです。

 

 

普段考え込むような記事ばかり書いてるけど、いつも食後はめっちゃめっちゃハッピーで、食べることの幸福を感じています。

リュウジさんありがとう…Delicious…💘

 

 

今年はこうやって、食べるのおいしいな、食べるの嬉しいなって喜びの引き出しを広げていけたらいいなって思ってます。

もともと食に興味がなくて、ずっとないままここまできた。

興味がなくてもいいけど「おいしいもの食べたら嬉しい」という最低限の感情は持ちたい。

あとまあ、私の場合は、おいしいの範囲が広すぎてわりとなんでもおいしいから何食べても同じって感じもしてた。(ふわっと書いたけどただのバカ舌ですね)

でも違うじゃん、自分が好きな味に出会えたらハッピーじゃん!

ということを年が明けてからひしひしと感じているので、今年はちょっとだけ、おいしいものを食べる年にしてみようと思う。

 

 

今年の私は「おいしいものを食べようプロジェクト2019実行委員会会長」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家計簿

 

 

 

 

家計簿をつけ始めて3、4年経っていた。

 

私の周りには「どうしても家計簿をつけられない人」がたくさんいる。

その人たちと家計簿の話になった時、「この人はマメだから」「この人はそういうのができる人だから」と言われることがある。

相手からは「なんであんな面倒なものを続けられるの?レシートを写メする家計簿ですら私には無理だった」「どうしてもつけられない、合わなくなるとイライラするからつけない」などとも言われてきた。

まず、そもそもの話だけれども、お金がないないと言いながらも、家計簿をつけなくても家計がなんとかなるなら、家計簿をつけなくてもいいと思う。

あと、手動入力だとどうしても少しの過不足は出てしまうことがあるけれど、人間は完璧な生き物ではないので、それは仕方がないと思う。

私は福祉にお世話になっている上、年がら年中緊縮財政だし、障害があって金銭管理ができなくなってしまっているので、つけなければ生活ができないという面がある。

私だって毎月なんとかなって、金銭管理がきちんとできるなら、家計簿をつけないと思う。

だからやっている。それだけだ。

 

私の周りの人は、家計簿をつけられない人、ではなく、家計簿をつけなくても生活がなんとかなる人、なのだと私は思っている。

家計簿をつけることができない、と人からよく聞くけれども、金銭管理がしっかりできて、毎月なんとかやりくりできるなら、それはもともとつける必要がないものである。

 

レシートに書いてあることをカテゴリー分けして金額を打ち込むだけの作業がなぜできないのかずっと疑問だったけれども、そもそもそうやって日用品にいくらお金を使ったかとか、食費がいくらかかったとか、細々した出費がこれだけあったとか、そういう計算、できるだけやりたくないよなあ、と思う。

私自身も、家計簿をつけながら「今月ストレスでパンばっかり食べてる…」とか「お化粧品を買ったから美容費が高い…けど今の私にはこれは必要だし…」とか「よく分かんないけど今月ピンチ!」とか、いちいち落ち込むことや、自分がどういうふうにどれだけお金を使ったかということと、それが何に基づく出費なのかということに向き合うことになっている。

できればそういうの、やりたくないよなあ、と思う。

家計簿をつけるということは、自分自身に向き合うこととも少しだけ関係があると思う。

これが家族の家計簿なら、ひと家族の出費として計算できるので、まだダメージが少ないし、子供のために、旦那のために、という出費なら、まあ仕方がないかなという気持ちにもなるんだろうけれども、私は私個人の出費を毎月毎月計算しているので、自らの甘えた部分や金銭管理のできなさに向き合うことになっている。

 

「家計簿がどうしてもつけられない」という人の中には、「自分と向き合いたくない」という潜在意識を持つ人も多いのではないかと思う。

お金は正直だ。

何に使ったか、どういう理由で使ったか、なぜ使うことになったのか、ということに嘘をつけない。

お金は嘘をつけない、ということは、それを家計簿に記録した時に、「今月パンばかり食べたな」「ストレスでお菓子たくさん買ってるぞ」「美容費が高いんじゃないか?」と、家計簿自体が、ちくちく嫌味を言う姑のような存在になってしまうような気がする。

だいたい人間は自分の甘ったれた部分に対しては、理由をつけてなんとかしたがる。

私もそうだし、人のことは言えない。

3、4年ほど家計簿をつけてきて、毎月毎月家計簿という名の擬似姑から現実を突きつけられ、最近は家計簿を見返してもほとんどが必要な物への出費になってきている。

これは、3、4年続けてきた効果だと思うし、毎日毎月こつこつ積み重ねてきた成果だと思う。

何気なく「家計簿つけてみようかな」で始めたけれど、継続は力なりである。

まあ、必要なものしか買ってなくても毎月緊縮財政なのは否めないけれども。

 

美容にしても、金銭管理にしても、何年も何年もかけてこつこつ積み重ねてきたことが、歳を重ねた今、身についていることを実感している。

何事も小さなことの積み重ねだと思う。

自尊心や自己肯定感が地についていて、救いようがないほどネガティブだったけれども、こうやってひとつひとつ積み重ねたことの効果が出ているのを実感すると、私も意外とできるようになれるんだな、と、嬉しく感じるものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好き」の汎用

 

 

 

 

「好き」という言葉を使うと、いかにも特別な人に対する特別な言葉のように感じるけれども、私みたいに広い意味でいろんな人に「好き」という言葉を使う人もいる。

 

私の中の好きは、重みのあるものから半紙より軽いものまで様々で、それをひとくくりに「好き」という言葉で表すので相手と気持ちの面で段差ができてしまう。

その段差のような誤解をどう解いていくか、そもそも段差ができないようにどう伝えるかが課題なのだけれども、多分無理なことはわかっている。

私は「好き」という言葉以外での表現方法を知らなかったり、どんな言葉なら納得して使えるだろうと考えても「好き」に帰結してしまうところがある。

どんなにふさわしくない立ち位置同士でも、好きは好きで、それ以外にしっくりくる言葉が自分の中にない。

好きは好き。でもそんな、大げさなものじゃない。

勘違いされても仕方がないけれども、それでもやっぱり相応しい言葉が見つからなくて「好き」って伝えて段差ができて、それの繰り返しで、異性にも同性にも、私の温度で物事を伝えるのは難しいな、と思う。

 

誰かのことを褒めるときも、いいなと思ってそれを伝えるときも、そういうところが好きだと伝えるときも、相手に伝わった瞬間にそれが形の違うものに変わってしまう現象を何度も体験して、一体どうやったらこれを防ぐことができるんだろう、と悩んだけれども、最近は、「防ぐのは無理かな」ということにたどり着いた。

そもそも人間なので、褒められたいとか、それいいねと言われたいとか、好きだって言われたいっていう気持ちってわりと皆持ってるもので、そこにカチッとハマる言葉を汎用する私に問題があるんだよな、と。

もっと言葉の使い方を考えたい。

特に女性は、褒めたり話を聞いただけでヘビーな話をしてもOKなんだなと勘違いしてしまうらしく、いきなり身の上話が始まったりするので、言葉に気をつけようと思う。

 

でも、好きが一番しっくりくるし、それ以外の言葉を使っても、今度は私の方に段差ができてしまう。

女性でもこの感覚が理解できない人は、友達や知り合いとして好きだという意味で話していても「付き合えばいいのに」とか言うから厄介なんですよね。。

人間愛を知らないのか。

意外と皆、特別な時にしか好きって言わないんですね。

 

私の「好き」は、意味が広いからあまり間に受けないでもらいたい。

もっと言葉を知れば解決するけれども、知ったところで結局「好き」という言葉に戻ってきてしまうと思う。

私から発される「好き」という言葉にそんなに重い意味なんてなくて、ツイッターのいいねくらいのものなので、あまり重く受け止めずに流してもらいたいと思う。

人と接していて思うのだけど、意外と皆、褒められたいし認められたいし、話を聞いてもらいたいし好かれたい。

それは別にいいんだけど、相手からなにかやってもらう前提で自分の機嫌をとる人が多くて、そういう人には私の感覚で好きとか言ってはいけない

話を聞いてもらったり、褒めてもらったりすると、機嫌がよくなるのは分かるけれども、それを求めて私と会う、となると話が違うし、こちらまで闇に引きずり込まれそうな話が始まることが大半だ。

あまりよく知らない人に、自分の感覚で接すると、人間関係事故を起こしてしまうことが多い。

今年はなるべく人間関係事故を起こしたくないので、ブロックする方法を身につけていきたい。

 

私の場合は「好き」を汎用していることと、人当たりが異様によくてわりと誰とでも喋れてしまうことが、吉と出ず凶と出まくっている気がする。

あまりよく知らない人のことを褒めたり話を聞いたりするのは、今年はお休みしよう。

と言っていても接客業根性が染み付いていて無意識にやってしまいそうだけど。。

 

私の言うことや、「好きです〜」みたいな言葉に意味なんかないので、そういうデカいプラカードを首から下げて人と接したい。

コミュニケーションがある程度誰とでも取れるのはいいことだけど、それで本人が嫌な思いをしたり消耗する機会が多すぎると、それはもう長所ではないし、長所だとしても生かせてない。

自分の周りの人の様子を見て、ブロックしてもいいところを学んでいこう。

それを身につけて初めて真のコミュニケーション上手だと思う。

 

こういう自分の上辺のトークだけで気分が良くなる人が当たり前にたくさんいるというのは、なんというか、日本人大丈夫なのか、現代人大丈夫なのかと疑ってしまう。

皆、自分で自分を癒せず、癒してもらえず、癒されたいんだなあ…。でもそれは私の役目ではないんだよなあ…。。

こういうことが多々あると、人間なんて、満たされないものの集合体なんだろうなと思う。

承認欲求が強めの女性に注意です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マシになること

 

 

 

 

 

鬱々とした気持ちを晴らすために散歩をしていたのだけども、靴下を買おうと立ち寄ったしまむらで可愛いヘアアクセサリーを見つけ、そういえば「変わりたい」と思ってからヘアアクセサリーを選んだことがないな、と思い、棚を見ていたら思いの外いいものがあったので買ってきた。

もちろん靴下も買った。

 

いくら希死念慮が強くても、こういう小さなことで「今よりもマシになりたい」という気持ちが自分の中にあることを再確認させられる。

少しでもマシになりたいという気持ちが無くならなくて、それは日に日に強くなっていくし、もしかしたら今本当に変わり時なのかもしれないなあ、と思う。

いくら全てを諦めたいほど目の前が真っ暗でも、目の前にお手頃価格の可愛いヘアアクセサリーがあったら買ってしまう。

しまむらだから尚更だ。

というか、しまむらが進化していて驚いた。

今はもう服を買うためにしまむらに行くことがなくなってしまったので、頻繁に通うことがないのだけれども、アクセサリーのクオリティが高くなっていた。

それでいて、お値段が高くても500円しないというハイコスパ

お化粧品や服に関してもそうだけれども、今はそんなにお金をかけなくても品質が良いものをあちこちで買うことができるから、お金をかけずに美しくなる術がたくさんあって、美にまつわることは全てお金がかかるというのは過去の話になったらしい。

物によるとか人によるとかも確かにあるけれど、100均のクオリティが年々上がっていくように、プチプラコスメのクオリティも年々上がっていき、ついにしまむらのクオリティまでもが、私の知らない間に上がっていたらしい。

可愛いってお金がかかる、とか、女の子を育てるにはお金がかかる、ということが、どんどん古い価値観になっていくような気がする。

今の子供は、ものすごくオシャレだけれども、お年を召した方が思うよりもお金がかかっていない。

私もギリギリその中に入っていられたらいいなと思う。

子供のカテゴリーではなくて、お金がかかっているように見えてかかっていない人のカテゴリーで。

 

 

しまむらのハイコスパアクセサリーにものすごく興奮しながら、アクセサリーの棚を漁っている最中にぼんやりと考えていたのだけれども、こういう「自分を美しく見せるもの」に触れていられるのは、もしかしたら運がいいことなのかもしれない。

見た目に関することや美醜で全てが決まるとは思ったことがないけれども、自分に自信を持つために美に関することをあれこれやってみるのは、確実に自尊心が上がると思う。

実際に、昔読んだ「境界性人格障害の治し方」みたいな本に、「とにかく自尊心が落ちてるから身の回りのことをやる、髪の毛にトリートメントをつけたり、お化粧したり、ネイルをやったりする」とかそういうことが書いてあった。

私もとにかく自尊心がなかったので、病気の治療も兼ねて美容に精を出している。

この場合、結果がどうだとかはあまり関係ないと思っていて、「大嫌いな自分を自分でお姫様にできるか」ということに重点が置かれるのだと思っている。

 

長い年月がかかったけれども、私は自分のことを少しずつ好きになってきている。

昔ほどの憎しみを自分に向けていないし、お世辞を言われたらかわすけれど、自分のことは並くらいの容姿だと思うようになった。

というか、あの両親から生まれたのだから妥当だ。

「あの両親から生まれたのだから妥当だ」という言葉は、昔一緒に働いていた人が言っていて、なんかいいなと思ったので私も使っているのだけれども、トンビが鷹を産むことがないように、私の顔は、あの両親から生まれたのだから妥当なのだ。

 

何年も何年もかけて、下手の横好き状態で美容に取り組んで、私が自分で変われる部分はだいぶ変えられたと思う。

だからこその、「女になってると思った!」という言葉だったのかもしれない。

 

詳しくは↓の記事にあります。

 

魔窟育ち - 揺れるように

(情弱すぎてリンクの貼り方わからねえ…たすけてくれ…また調べてやり直します)

 

「女になってると思った!」と言われてから2、3年ほど、その言葉の意味をぐるぐると考えていたけれど、今は納得している。

自分を嫌いなまま、自信がないままでいる同級生に言われた言葉なのだけれども、同級生と一緒に過ごした学生時代を思い返したら、私はこの言葉を聞いた時点で、わりと自分のことを好きになっていた。自信を持てていた。

学生時代に比べたらの話なので、心に歪みがない人と比べたらまだまだ足りない部分もあるけれど、自分に対して「そんなに悪くないじゃん」と思えるようになっていた。

それだけでもう充分だ。

大嫌いな自分を自分でお姫様に変えるために、コツコツ自尊心を積み重ねてきた。

その結果として、今の自分になれた。

自分が大好きではないけれども、学生時代のように、自分が大嫌いなことはない。

普通に、可愛いものがあれば買うし、身につけるし、お化粧もするし、人に会うときはおしゃれもする。

私がお化粧を始めたのは約10年前だ。

約10年かけて、精一杯やって、一枚一枚ティッシュを重ねるような積み重ねだった。

はたから見たら何をやっているのかわからないような努力を積み重ねて、自分のことをわりと好きになれた。

自信がないと感じることはあるけれども、自分を忌み嫌うようなことはもうない。

 

話が戻るけれども、私がこうやって美容に取り組んで、自分を好きになれたことは「運がよかった」とつくづく思う。

周りの人の心ない対応があったり、そもそも美容を悪とする環境で育っていたら、今頃まだ自分を嫌いなままで三十路手前になっていたかもしれない。

私は本当に運が良かった。

今考えたらどう見てもぼろぼろの格好でデパコスのカウンターに行っても、きちんと対応してもらった。

私の荒れた肌に、美容部員さんは、綺麗にお化粧を施してくれた。

周りの人も、私の見た目やお化粧をあからさまに馬鹿にすることはなかった。

ひとつも傷がつかなかったと言ったら嘘になるけれども、自分の美に対して大きな傷を他人から一方的につけられることは、そんなになかった気がする。

小さなかすり傷はあるけれど、かすり傷は治りやすいものだ。

 

 

ここに辿り着くまでに約10年もかかってしまった。

約10年で済んでよかったとも思う。

ここから先も、私は私の人生を開拓していく。

自分のことを好きになるための約10年、ずっと右往左往していて、落ち着かなかったから手が出せなかったこともたくさんある。

それはこれから、少しずつやっていけばいい。

何をやるにも、自尊心や自己肯定感はあったほうがいい、と、この約10年間で痛感した。

自分が傷つく結果に終わることもあるけれど、それはまだよくて、最悪の場合、他人が自分の傷を庇ってしまったりすることがある。

それはもう、庇ってもらってしまって本当に申し訳ない気持ちになったので、周りの人のためにも自分のためにも、最低限の自己肯定感と自尊心は持っていたいなと思う。

 

積み重ね方が悪くて時間もかかったけど、しまむらでヘアアクセサリーを選びながら、「私は美容に取り組んだことで自分を好きになれた、もし美容に取り組めなかったら、ずっと自分を嫌いなままでいたかもしれない」と思って、背筋がひやっとした。

可愛いものに触れること、可愛いものを身につけることや身にまとうこと、自分に施すこと。

それらは社会のマナーであったりもして、義務感から窮屈に感じられることもあるけれど、私に「自分を好きになること」を与えてくれた。

これからも自分ができる範囲で、まだまだ下手の横好きだけれども、美容に取り組んでいこうと思う。

 

美しくなりたいと思って、それを自分に施すこと。

簡単なようで難しいことでもあるけれど、思考錯誤しながら地道に続けてきてよかったと思う。

まだスタートラインに立てたかも微妙だけれども、始める前よりもマシになったのは確かだ。

これからもマシになり続けたい。

少しずつ少しずつ、大丈夫になっていきたい。