揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

家計簿

 

 

 

 

家計簿をつけ始めて3、4年経っていた。

 

私の周りには「どうしても家計簿をつけられない人」がたくさんいる。

その人たちと家計簿の話になった時、「この人はマメだから」「この人はそういうのができる人だから」と言われることがある。

相手からは「なんであんな面倒なものを続けられるの?レシートを写メする家計簿ですら私には無理だった」「どうしてもつけられない、合わなくなるとイライラするからつけない」などとも言われてきた。

まず、そもそもの話だけれども、お金がないないと言いながらも、家計簿をつけなくても家計がなんとかなるなら、家計簿をつけなくてもいいと思う。

あと、手動入力だとどうしても少しの過不足は出てしまうことがあるけれど、人間は完璧な生き物ではないので、それは仕方がないと思う。

私は福祉にお世話になっている上、年がら年中緊縮財政だし、障害があって金銭管理ができなくなってしまっているので、つけなければ生活ができないという面がある。

私だって毎月なんとかなって、金銭管理がきちんとできるなら、家計簿をつけないと思う。

だからやっている。それだけだ。

 

私の周りの人は、家計簿をつけられない人、ではなく、家計簿をつけなくても生活がなんとかなる人、なのだと私は思っている。

家計簿をつけることができない、と人からよく聞くけれども、金銭管理がしっかりできて、毎月なんとかやりくりできるなら、それはもともとつける必要がないものである。

 

レシートに書いてあることをカテゴリー分けして金額を打ち込むだけの作業がなぜできないのかずっと疑問だったけれども、そもそもそうやって日用品にいくらお金を使ったかとか、食費がいくらかかったとか、細々した出費がこれだけあったとか、そういう計算、できるだけやりたくないよなあ、と思う。

私自身も、家計簿をつけながら「今月ストレスでパンばっかり食べてる…」とか「お化粧品を買ったから美容費が高い…けど今の私にはこれは必要だし…」とか「よく分かんないけど今月ピンチ!」とか、いちいち落ち込むことや、自分がどういうふうにどれだけお金を使ったかということと、それが何に基づく出費なのかということに向き合うことになっている。

できればそういうの、やりたくないよなあ、と思う。

家計簿をつけるということは、自分自身に向き合うこととも少しだけ関係があると思う。

これが家族の家計簿なら、ひと家族の出費として計算できるので、まだダメージが少ないし、子供のために、旦那のために、という出費なら、まあ仕方がないかなという気持ちにもなるんだろうけれども、私は私個人の出費を毎月毎月計算しているので、自らの甘えた部分や金銭管理のできなさに向き合うことになっている。

 

「家計簿がどうしてもつけられない」という人の中には、「自分と向き合いたくない」という潜在意識を持つ人も多いのではないかと思う。

お金は正直だ。

何に使ったか、どういう理由で使ったか、なぜ使うことになったのか、ということに嘘をつけない。

お金は嘘をつけない、ということは、それを家計簿に記録した時に、「今月パンばかり食べたな」「ストレスでお菓子たくさん買ってるぞ」「美容費が高いんじゃないか?」と、家計簿自体が、ちくちく嫌味を言う姑のような存在になってしまうような気がする。

だいたい人間は自分の甘ったれた部分に対しては、理由をつけてなんとかしたがる。

私もそうだし、人のことは言えない。

3、4年ほど家計簿をつけてきて、毎月毎月家計簿という名の擬似姑から現実を突きつけられ、最近は家計簿を見返してもほとんどが必要な物への出費になってきている。

これは、3、4年続けてきた効果だと思うし、毎日毎月こつこつ積み重ねてきた成果だと思う。

何気なく「家計簿つけてみようかな」で始めたけれど、継続は力なりである。

まあ、必要なものしか買ってなくても毎月緊縮財政なのは否めないけれども。

 

美容にしても、金銭管理にしても、何年も何年もかけてこつこつ積み重ねてきたことが、歳を重ねた今、身についていることを実感している。

何事も小さなことの積み重ねだと思う。

自尊心や自己肯定感が地についていて、救いようがないほどネガティブだったけれども、こうやってひとつひとつ積み重ねたことの効果が出ているのを実感すると、私も意外とできるようになれるんだな、と、嬉しく感じるものである。