揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

閉塞感の話

 

 

 

 

ここ一週間ほどものすごく調子が悪く、特に普段と違うこともしてないのにひたすら動けないでいたら、どうやら冬が終わるから体調を崩す人は崩すらしい。

ツイッターを見ていたら、「立春を過ぎたら楽になる」というようなツイートが回ってきた。

こういうとき、ネットが普及してくれてよかったと心から思う。

自分一人ではないことと、訳の分からない不調の原因が分かることがあるからだ。

 

思えば、ネットはあるけどスマホが普及していなかった「ガラケー全盛期」は、懐かしいけれども今体験したら不便なんだろうなと思う。

私はガラケー全盛期に不登校や苦投稿を経験しているけれども、なんというか、外界に繋がる手段があまりにもなさすぎて、学校に適応できない身としてはものすごい閉塞感があったのを覚えている。

今も自宅療養だけど、あの頃のような閉塞感はない。

「頭が痛い」とか「元気が出ない」とかで検索をかけると、リアルタイムで同じことを呟いている人がいて、「ひとりではないんだな」ということを、ひとりでいながらも感じることができる。

病名で検索をかけると、同じ病に苦しんでいる人がたくさんいて、これもまた「私ひとりではないんだな」と感じることができて、とても安心材料になる。

 

もっと早くスマホやネットが普及してくれていればなあ、と思うこともあるけれど、ネットが普及していなかった頃にもいいことはあったので、どっちもどっちかもしれない。

 

友人が「今もうみんなLINE、メールなんて使わない」と話していたことがある。

それだけスマホが普及したということだろう。

「みんなスマホ」みたいなことだ。

 

2、3年前に付き合いを絶った知人がいるのだけれども、知人は家族でガラケーユーザーだった。

私には、知人は閉塞感に満ち溢れていたように見えた。

会ってすぐに「お金がない!借金がある!保険証がない!貯金がない!」とまくし立て、「私は昔兄が亡くなって、兄の代わりに両親が私を作った」などと、一方的に「負の生い立ち」を話し続けた。

正直疲弊した覚えがある。

知人の話を聞くうちに、私は体が痛くなったり肩や首が凝ったりということに見舞われ、最終的に「私といるときくらい明るい話をしよう」という話し合いの場を設けた。

負の事柄に晒され続けたのでかなり暴力的な場になってしまったことは申し訳ないけれど、「私だって精一杯元気に見えるように頑張っているから、辛いことばかり話されたらしんどいよ」ということを話した。

すると知人は「ごめんごめん、でさ、私昔いじめられててさ…」と、今までの話なんか聞かなかったかのように過去のいじめの話を始めた。

知人は「私は世界一不幸だ」という空気をまとって生きていた。

ガラケー全盛期、「私はひとりで苦しんでいるのではないか」と閉塞感に満ち溢れた過去の私のようだった。

 

なんだかんだあり、知人に関わり続けるのは不可能だと判断して離れた。

遊ぼうと誘われて行けば7、8時間ほど愚痴や不満、過去や生い立ちの負の話を聞き続けることが、私はどうしてもできなかった。

過去の私が対応してもらって嬉しかったようには、知人に対して接することはできなかった。

それは、私の周りの人たちの精神状態が病的ではないからだということも関係していると思う。

私は病気だ。申し訳ないけれども、2人分の荷物は背負えない。

 

それから知人がどう生きているか、どうしているのかは気になるけれども触れていない。

知人のことは特に悪い人だとは思わないけれど、どうしても負の事柄に晒され続けることには耐えられそうにない。

知人に対しては、もっと外の世界を見てもらえたらなあ、と思うことが多々あった。

実は私も、私の上の子供を母が流産していて、その次の子供だ。

そのくらい、そういうことは「ありふれた話」であり、特段変わった生い立ちではない。

借金の有無や貯蓄の有無も、人に言わないだけで、抱えている人は抱えている。

私の知り合いは私より年下だけれども、車が好きで、事故やなんやかんやがあり3桁の借金を抱えている。

貯蓄の有無もそうだ。貯蓄がない人なんてツイッターに山ほどいるし、おそらくこの不景気の世の中、道を歩いていたら当たるくらいの確率でいるのではないかと思う。

そう思うと、知人の抱える負の事柄は、ごくありふれた日常の一部である。

 

ネットに触れられない人を、「あなただけではないよ」と広い世界に誘う方法は、私にはまだ分からない。

分からないけれど、いつかその方法を身につけたいと思う。

ネットに触れられない家庭が悪いわけでもないし、知人が悪いわけでもない。

ただ「世界は広い」ことを体感できないのは、とんでもない閉塞感と「私ひとりが苦しんでいる」という、自分で自分の首を絞めるような考え方の中で生きていくことだ。

誰かにとっては生き地獄でもあるだろう。

 

今、ネットやスマホがかなり普及して、「ひとりだけどひとりじゃない」とか「世界は広い」ことを感じられる世界になっている。

それでも、ネット環境がない家庭で育ち、そのまま大人になり、閉塞感で苦しむ人もいるだろう。

私は今後、ネットに触れられない側の人に、どうやって「世界は広いんだよ」「ひとりじゃないよ」ということを伝えられるのかを、少しずつ考えていきたいと思っている。