揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

自分を変える活動の成果〜2017-2019.02〜

 

 

 

 

 

 

絶対に負けないぞ、と強く思った。

 

私の中にある「私の人生なんて何をやっても無駄」という呪いは、中学生の頃に一年だけ入っていた部活の顧問に植え付けられたものだ。

これに長らく苦しんできた。

大人になった今、はらわたが煮えくり返って仕方がなくなって、「復讐したい」という気持ちが限界に達したら、私は県や市の教育委員会に手紙を書くくらいのことはやると思う。

だからどうなるというわけではないけれど、「部活で関わった生徒からクレームが来た教師」という肩書きをあげたい。

正直、復讐よりも「自分が幸せになること」のほうが大事なので、今は全く復讐したいとは思っていない。

まあ、でもその教師の子供と接する機会があったら、絶対優しくなんかできないと思う。

その教師の子供が目の前で倒れても救急車を呼ばないと思うし、あなたのお母さんは私が人生を諦めるように指導してくれたんだよ、って教えちゃうと思う。

でもまあ、そんな復讐に燃えてもなーんにもいいことなんかないし、私は負のエネルギーを持ったり怒ったりすると、動悸やめまいがしたり、頭がクラクラしてくる穏和な生き物なので、ガチの復讐の予定はない。

こういう思考の自分を見ていると、親の買った恨みや犯した罪は、僅かながらであっても子供にも影響があると思う。

私の親もいじめをやっていたけれど、その恨みもあっての今なのだろうか?

いじめっ子は幸せになれない、を体現した親を見て思うことは、いじめは絶対に両方にとってよくないものだということ。それだけだ。

 

そんなふうに人を恨んで復讐だのなんだなと考える暇があったら、自分が幸せになるための策を練りたい。

負のパワーで動きたくない。

人を傷つけることが得意な人間のせいで、自分の人生をダメにしたくない。

今までダメになりそうなときは、誰かが助けてくれたし、私はそんな、ダメな人間なんかじゃない。

これは呪いだ。

中学生の頃に、男勝りで言葉遣いの悪い、自称熱血のつもりが性格が悪く荒いだけの女教師から植え付けられた、人生を腐らせる壮大な呪いだ。

この呪いに縛られて散々つらい思いをしてきたけど、もう、あんな人間が植え付けた呪いなんかに縛られたくない。

今まで私を好いてくれた人たちの中には、呪われている私が好きな人もいた。

実際に、一方的に不満や愚痴をこぼし続ける、いわゆる「マシンガントーク」ばかりする相手から、「歳をとったら一緒に暮らしたい」だの、「毎週土曜日にランチしたい」だのと言われたこともある。

呪われている私は、同じく何かに呪われている人にとても好かれた。

でももう、そういうのは、終わりにしたい。

 

今、なんだかんだで少しずつ呪いが解け始めているし、呪いを解く作業を進めている。

私にまとわりついている、こんがらがった糸や腐った蔦を、ひとつひとつ丁寧に自分から離して、「これはなんだ?」と考えて処理するという作業を、地道に行っている。

手間がかかるし時間もかかる。もちろん原因解明と前進のためのお金も僅かながらかかる。

そういうことをやってみて、人並みに自分を肯定して生きるっていうのが、こんなに労力が必要だというのは想定外のことだったと感じる。

 

自己肯定感は地についていた。

とにかく自信がなかったし、自分は大切ではない、不幸になって当たり前、人生を諦めるべきだとか、自分にはお金をかける価値がないなどと思い込んでいたから、さあ大変。

呪いを解くためにできることは、とにかくコツコツ、1日1日、できることや原因解明をやり続けること。

20年近く心に染み付いていた呪いのシミを、毎日洗濯して、できるだけ薄く目立たなくする作業。

ときどき性格の悪い教師のことを思い出すけれど、自分よりも格下の生徒相手に怒鳴ることでしか鬱憤を晴らせなかったのか、怒鳴ったり威圧したりする以外の生徒への寄り添い方を知らなかったのだと思うと、教師以前に人としてちょっとどうかしてるんじゃないかと思うようになった。

どうかしていると思う相手とは関わらないのが一番だし、そんな相手のために脳の容量を使うのが本当にバカらしいと思う。

 

ふつふつ煮えたぎるどす黒い塊は、べとべとでなかなか綺麗にならない。

今までに受けてしまった呪いや、様々な傷つき、自己肯定感のなさで、私の心は汚いドブや、枯れた草木とゴミが散乱する荒れ地と変わりはなかった。

それと向き合って、変えたいんだと、変わりたいんだと何度も何度も自分を奮い立たせて、少しでも今よりマシになりたくて、なにより、呪いを解きたくて、昨年からもがいてもがいてなんとかやってきた。

その結果、心の中の荒れ地に、ポン、と一輪だけタンポポが咲いたような気持ちになった。

 

私の心の中にタンポポが咲くのは初めてだ。

トゲトゲの生えたよく分からない蔦のような植物がある感覚はずっとあったけれど、ここ最近はその植物は心の中にあまりいなくなった。

今は、なんなのかよく分からないけれど、他人への愛とか、自分への愛とか、私は全然ダメなんかじゃない、いいところだってたくさんある、という気持ちが、ほんの少しだけ生まれてきている。

心の中にタンポポが咲いた。

心の中にタンポポが咲いた!!!!!

ヤッターーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!

 

やっと私の心の中に小さなタンポポが咲いて、20年近く私を腐らせて傷つけてきた呪いと、少しずつ離れていけそうな気がしている。

荒れ地もすっかり片付いて、これからはこのタンポポから生まれる綿毛で、まだでこぼこはあるけれども植物が育ちそうな私の心に、どんどんタンポポを増やしていく作業もやることになりそうだ。

一朝一夕でなんとかなることでもなかったけれど、去年から地道に取り組んできてよかったなあ…という気持ちである。

 

今でも、絶対に負けないぞ、と強く思っている。

それは、ここで変えなければずっと今のままだということと、今の私は幸せではないこと、それに、周りの人からの呪いにかかったままで「不幸であり続けることを心のどこかで願っている」、という現状を変えなければ、ということが主な理由だった。

ほんっっっとにここまでくるのに長かったし辛かった…。。

 

自分の中にある愛にも、他人からの愛にも無自覚で、そんなものは存在しないという気持ちで、とにかく愛について蓋をして生きてきた。

私は頑張っても認められない、愛されない、誰にも踏み込ませない、という認識から一転、私を愛してくれている人はいるし、私も他人のことを愛しているし、関わってくれる人たちにはもっと深い話をしてもいいかな、という気持ちになっている。

タンポポが咲くまで、ずっとゴミや枯れ木が散乱する荒れ地のような荒んだ心だったのに、タンポポが咲いてからは、そんなに威勢良く荒むことがなくなった気がする。

 

先日散歩をしていた時に、急に目の前に鳥の亡骸が横たわっている光景が目に入ってきた。

びっくりして固まって、少し見つめてから「安らかに…」と手を合わせて通り過ぎた。

私に懐いているわけでもない、どんな鳥なのかも分からない、私には全く関係のない鳥だけど、「亡骸であること」が悲しかった。

それまで「私なんか死んでも別にいい」と思って生きてきていたけど、それは違うと感じた。

見ず知らずの鳥の亡骸を見て悲しくなることもあるのに、私の訃報なんかがあったら、私の周りの人はどう思うだろうか。

病気になったきっかけのひとつに「部活が厳しすぎた」ということもあった。

そこから生まれた病気に「私はこの世には必要ない」と思わされているだけで、この世に必要ない命なんてないし、鳥だって犬だって猫だって必死で生きている。

必要ない命なんかない。私も含めてそう。

この考えは世間一般では当たり前とされているけれど、私にはその当たり前の考えがなかった。

やっと、人間や動物の命の重みを感じるようになっている。

私という人間の命にも、ちゃんと重みはあるのだ。

 

人生、どこでどういうふうに狂うか、狂わされるか分からない。

相手にどんなに悪気がなくても狂わされることがあるし、私自身も誰かの人生を狂わせてしまうことがあるだろう。

そういう狂気を孕んだ世界で生きているから、せめて命の重みくらいは毎日実感していたい。

 

やっとここまでなんとかなった。

心の荒れ地が整い始めてタンポポが咲いたし、偶然にも私が納得する形で命の重みを感じる出来事にも出会った。

私はダメな人間じゃないし、命は大事。皆平等。

幸せになる権利がない人間なんていない。

人間は、幸せになるために生きているんだということ、死ぬまでの間に会いたい人に会い、食べたいものを食べ、好きなことをやる。

寿命がきて亡骸になるまで時間はあって、自由に使えるのだから、自分から不幸にならなくてもいい。幸せになっていいんだ。

一気に考えが改まった。

これまでの私はなんだったんだというほどに。

 

もうここまできたら、中途半端なままで終わりたくない。

私は変わる。

変われるところまでやってみる。

ダメだったらまたその時に考えるし、生きてる限りやり直しはできる。

人生一回きりだし、できるだけ負のものを少なくした状態で楽しんでみてもいいんじゃないか?と思えるようになった。

足枷となる負のものや呪いは、自覚がないだけでまだまだあると思う。

でも、頑張ってみたら荒れ地だった場所にタンポポが咲いたし、できないと思っていたことだってやってみたらできた。

嬉しい。

 

これからもまだいろんなことに挑戦する。

うまくいくのかは分からないけど、生きている限りやり直しはできるし、遅すぎるなんてことはきっとない。

遅すぎたら遅すぎたでまた、別の形で幸せに向かって突き進んでいくだけだ。

 

楽しく生きて、楽しく死ぬぞ!

寿命が来るまでエンジョイするぞ!!