揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

パステルピンクが嫌だった

 

 

 

 

自分の顔に合う化粧と、自分が好きな化粧は違う。

分かっていても今まではどうしても「好きな化粧」を追い求めてきたけど、もう観念して、去年あたりから「合う化粧」に変え始めた。

顔の印象がガラッと変わり、長年髪を切ってもらっている美容師さんから「どんどん変わりますね〜」と声をかけてもらった。

自分でも、顔の雰囲気が変わったと思う。

好きな化粧をしていた頃は、なんとなくちぐはぐな印象になっていた自分の顔が、元の顔の良さを引き出している。(元の顔はそんなに良くない)

チーク、リップ、眉、マスカラ、ファンデやパウダーまでごっそり変えたら、「自分の顔ってそんなに悪くないじゃん」と思える仕上がりになることが増えた。

こうなってくると髪型も変えたくなり、長年ショートカットだったのを思い切ってボブにした。

ブローが壊滅的に下手くそなので仕上がりが悪いけど、何ヶ月もかけて練習するつもりでボブにした。

これでよかったんだと思う。

 

長年追いかけてきた「なりたい私」にはとうとう手が届かないままだった。

かすりもしないし掴めもしない。

タンポポだった私が薔薇になりたくてなろうと足掻いて、足掻いて足掻いて、無理だと悟って諦めた。

自分以外の人間になろうと思ってなれるなんて、そんなことはなくて、歳を重ねるごとに「なんか違うな」と違和感を持つことが多くなって、やめようか、という気持ちになった。

何かに取り憑かれたように集めていたビビッドピンクのリップもチークも、いつのまにかスタメンから外れた。

長年使ってきたパウダーも、ファンデーションも、思い切って変えた。

後悔はない。未練もない。

 

今よりもっと若い頃は、パステルピンクが似合う自分が嫌だった。

自分のことが嫌いでもあった。

今、歳を重ねて、やっとパステルピンクが似合う自分に納得できて、少しずつ受け入れられるようになっている。

そうすると、顔に合った色で化粧ができるので、仕上がりが良くなり、自分の見た目を肯定的に思えることが増えた。

若い頃は、似合わないものをつけて仕上がりが良くない、という負のスパイラルに陥っていたことに気がついた。

 

ナチュラルメイクが嫌いだったのは、ナチュラルメイクでブスは隠せないと思っていたからだった。

いいお肉って、岩塩で食べるのが一番美味しいみたいな。

腐りかけのお肉は、下味つけてタレをドバドバかけないと食べられないみたいなことだ。

ナチュラルメイクは、限られた「もともと美しくて最低限の化粧でも顔が整っている人」ができることだと思っていた。

私の顔は、美人とか嫌いとかそういうタイプではないし、結構実年齢より下に見えてしまうことが多くて、それを化粧で埋めようとしていた。

私はいいお肉ではないと思い続けてタレや下味をドバドバつけていたわけですが、美味しい肉ではなくても、タレや下味はつけずに塩胡椒だけで食べるほうが美味しい肉もこの世に存在することに気づいていなかった。

何年生きてるんだ。気づくのが遅い。。

 

 

そうやって、少しずつ自己肯定の魔法が使えるようになってきている。

パステルピンクのチークが一番似合う自分が嫌で嫌で仕方がなかったけど、今はそういう自分を良く思っている。

もがいてもがいて、やっとたどり着いた。

 

自分の容姿が、雰囲気が、髪の毛が、自分の全てが「いい子ちゃん」のイメージを持たれやすくて、それが嫌で嫌で仕方がなかった。

二十代半ばの頃に会っていた元知人は、親に友人を選ばれる家柄だったのだが、私は元知人の親から見たら「絶対にOK」という存在だった。

そういうのが嫌だった。

そういう、「絶対的ないい子」みたいなシールを貼られるのが、もう心底嫌だった。

私だって人並みに心が汚いし、腹が立つこともあるし、ネガティブなこともある。

それをなかったかのように、「あなたはいい子だから怒らないよね?」と言いたいような奔放で尊大な態度を取られることが多く、人付き合いを辛く感じることが多かった。

私は踏み外してはいけないのか、遊んではいけないのか。

一歩でも踏み外したら周りの人から嫌われるのか、見放されるのか、もし踏み外したら「まさかあの子が…」と絶望されるのではないかと思うと、人並みに遊ぶことすらうまくできなかった。

周りの人からの無意識の「あの子はいい子だから」というプレッシャーが嫌で嫌で仕方がなくなり、たばこを吸うようになった。

いい子のレッテルを貼られることに嫌気がさして、私自身も一回自分がハメを外すことを体験したかった。

結局、たばこは辞めてしまったのだけれども、「禁煙した」と話すと「よかった」と言われることが多い。

それすらも嫌になることがある。

ただ健やかに生きることが人間の基礎なのだけれども、私に関してはそれにプラスで「よしよしいい子だな、ハメを外さないで夜遊びも知らないままおとなしく嫁に行って子供を産めよ、良妻賢母コースだ」という無言の圧力のようなものもあり、もうそういう理想の女像や聖母マリア像のようなものを押し付けないでほしいと思っている。

私だって人間だ。

聖母マリアみたいにはなれないし、なれるものじゃない。

人間なのに完璧を求められることが、辛くて仕方がなかった。

そして、そういう理想の女像に勝手に押し込まれてしまう自分の見た目や容姿、髪の色や雰囲気の全てが嫌いだった。

 

パステルピンクが嫌だった。

嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。

でも、パステルピンクが似合う私としてしか、生きられないことに気づいた。

今でも嫌なことはあるけど、周りの人間からの勝手な評価なんかクソ喰らえの精神で、パステルピンクが似合う私をやっていこうと思う。

パステルピンクが似合う私でも、夜遊びをしたり、ハメを外したりしてもいい。

思い切りやりたいことをやってもいい。

羽を伸ばして、いけるところまでパタパタ飛んで行こうと思う。

 

 

余談なのだが、真面目ないい子ちゃんだと思われていると周りの人から「愛のあるセックスしかしてはいけない」というレッテルも貼られるのだが、なんでこう、「セフレがいます」で「わかるー、何人いる?」と許される女もいれば、「セフレがいます」で「はあ?!見損なった!」「そんなことしてたなんて最低!」「嘘でしょ…?」ってなる女がいるのでしょうかね。。

そういうふうに勝手に自分の理想の中に私を押し込める人がかなりたくさんいるので、ほんとうに身の振り方をいちいち考えてしまって、本能に任せて楽しく生きていくということができてない気がする。

私もヤリマンになっても別に良くない…?

今すぐなる予定はないけど、将来的に、もしなったとしても別に良くない?

なんで勝手に自分の考えた理想の枠の中に人を押し込めるんだ。ムカつく。

これの恐ろしいところは、かつてヤリマンだった人も、私がヤリマンになるのを嫌がることなんですよね……お前はどうなんだよ!!!!!!!!!!!!特大ブーメラン!!!!!!!!!!!!!