揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

食事のお誘い

 

 

 

 

またみんなでランチでも行きましょう、というお誘いと、また会いたい、というお誘いを保留にし続けている。

 

「みんなでランチ」は、前の職場の方々とだ。

前の職場は、いわゆる「家族みたいな職場」だった。

どんなに怒鳴り散らしてケンカをしても、次の日には「おはようございます」と挨拶をして働くようなところだった。

私は大学生の時に働かせてもらったのだけど、いい人ばかりでほんとうにありがたかった。

その反面、自分は心を開けたかというと、そうではなかった。

私の中では「仕事の人は仕事の人」という気持ちが強くて、私個人が家族のように振る舞えたかというと微妙である。

なんだかんだで皆年上だし、気を遣わないで、と言われてほんとうに気を遣わないでいられるほど能天気ではない大学生だった。

 

なんだかんだあって、1人を残して私を含めた他の3人がその会社を辞め、そのうち1人が定年退職のような辞め方だったので、また集まろうよという感じになったらしい。

詳しくは私もよくわかっていないが、お誘いがあるのは事実だ。

嬉しい反面、ちょっとどうしたらいいかわからない自分もいる。

拒食症になりかけているので、外食がまともにできなくなってしまっているからだ。

お腹いっぱいになる量を注文できない。

残したらどうしよう、という恐怖で頭がいっぱいになるのだ。

外食では絶対に残さないようにと両親が厳しく躾をしたのが悪かったらしい。

そもそも人間に「絶対」を求める子育てはよくないのだと、大人になってから学んだ。

 

昔から「残して怒られるくらいなら食べない」というタイプの子供で、祖父母を含めて食事をするとき、テイクアウトのお寿司屋さんでよくお寿司を買っていたのだが、手巻き寿司一本しか食べなかった。

恵方巻きのようなものではなくて、コンビニで売られている細巻きに近いタイプの大きさのものだ。

小学生の私は、お腹は空いていたけれど、怒られるよりもずっとマシだと思っていた。

私が我慢すれば怒られない。こういうふうに誤学習してしまった。

 

3年前に抑うつで食事が摂れなくなり、食べずに働いた結果、4ヶ月で5キロ痩せた。

そのうち1ヶ月で3キロ痩せている。

そのとき、毎日体重計に乗っていたのだけど、不健康だとわかっていながらも、痩せていくことは嬉しかった。

毎日食べずに働くだけでスルスルと体重が減り、脳が快感を覚えた。

この快感は、愛する人とのセックスのような充足感を含んだ快感ではなく、麻薬や覚醒剤、ギャンブル依存なんかと同じような「覚えてはいけない快感」だと思う。

あっという間に拒食症の診断がおりるスレスレまで体重が減り、仕事を辞めることにした。

 

仕事を辞めた後、自分を痛めつけたツケが回ってきた。

どんなに痩せても、痩せたと感じられないのだ。

むしろ、まだ太っている、まだ痩せたほうがいい、という気持ちが強く、いくら鏡を見ても自分が太って見えた。

服のサイズはXSになっていた。

それでも、まだ痩せたほうがいいという気持ちは未だにどうにもならなくて、脳に快感と一緒にこびりついている。

 

昔、バイト先に、ガリガリなのに特売のダイエットビスケットを買いに来るお客さんがいた。

薬の販売資格を持った方が、「そういう病気かと思ってしまうよねえ…」と複雑そうにお客さんを見つめていたことがある。

当時大学生で、「自分が拒食症になりやすい性格だ」という自覚だけはあったけれど兆候なんて微塵もなかった私は「そうか、なんか大変だな」と思っていた。

でも今、私はそこに足を踏み入れそうになっていて、それは、頭では分かっているとかそういう理屈ではどうしようもないものなのだと痛感している。

 

ランチのお誘いに関しては、「是非是非行きましょう」と答えてあるので、あとは私が出向いて連絡先なんかを受け渡せば、流れに任せてなんとかなるんだと思う。

でも、どうしても、「自分が満足に食べられる量の半分も注文できない」という状態を見せたくない、見られたくないという気持ちが強すぎて、1年くらい前の職場には出向いていない。

申し訳ない。

 

精神疾患自体が理解されにくいのは私も分かっているけれど、ご飯が食べられないとか、そういうのはもっと理解されにくいのも知っている。

そういう私だからって嫌ったりするような人たちではないことは分かっているのだけれども、普通に食べたい量を注文できないという状態を、どうしても他人に見せることが怖い。

バイト先に来ていた「ダイエットビスケットを買っていくガリガリのお客さん」と同じような状態なのかと思うと絶望してしまうし、そういう自分を受け入れて「これが私です」というふうに生きていくのはもっとつらい気がする。

ありのままを受け入れて生活ができればいいけれど、ほころびとか、ほつれとか、穴があいていたりするのはやっぱり目に付くし、どうしても自分の歪みも丸ごと愛せるようにはなれない気がする。

 

拒食症の傾向が顕著に出始めたのが3年前だ。

元の大きな病気は、発症して10年以上経っているからもう受け入れモードだけれども、また新たな体験したことのない歪みが出てきて、困惑している。

満足する量を注文できない、ということを飲み込めるまでどのくらい時間がかかるのだろうか?

自分がまだ太っている、痩せたほうがいい、という気持ちに折り合いをつけられるのも、いつになるのだろうか?

まだ先が見えない。怖い。

真っ暗なトンネルは、ただただ怖い。

 

またみんなには会いたいと思う。

それは嘘ではない。

そういう病気になった、とか、私の病気の様々なことを話しても、それでいきなり嫌われるようなこともないと思う。

ないとは分かっていても、どうしても、自分でも不可解なこの状態で人に会うことは怖い。

嫌われないことがベースにあっても、受け入れてもらえると分かっていても、どんなふうに愛されていても、「食べられない」とか「痩せ願望」みたいなものに取り憑かれている自分をさらけ出すのは怖くて、ついつい平気なふりをして詰め込んでしまったりもする。

情けなくて落ち込んでも、寝て起きたら朝が来て、また「うまく食事が取れない私」の1日が始まる。

 

私は自分を変えて自己肯定感を得たいと思っているけれど、変えることはほどほどに、必要最低限にして、歪な自分をありのままの姿で肯定することもやっていったほうがいい気がする。

そもそも歪な自分を今まで全く肯定してきてないので、「歪な自分を肯定する」というふうに変えていくことになるのか。

………できるかなぁ。。😥