揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

救い

 

 

 

 

「人に迷惑をかけたくない」という気持ちが常に心の中を占拠していて、その結果、自分でいろんなことを抱え込みすぎて自殺を図ったことがあった。

しかも一回で懲りたつもりだったが、5年後に同じような状況でまた同じことを繰り返した。

 

「人に迷惑をかけたくない」という気持ち自体は別に悪いことではないと思うし、「人に迷惑をかけて当たり前」という気持ちで開き直って生きている人の方が少ないと思う。

微々たる迷惑は誰にでもあって、それは日常のどこにでも発生する致し方ないものだと思う。

というか、生きている限り「人に迷惑をかけない」ということは不可能だと思うことが増えてきた。

私も迷惑をかけられながら生きているし、迷惑をかけるし、お互い様だと思う。

人それぞれで迷惑をかけられることへの許容範囲やキャパは異なるけど、そんな大きい迷惑をいきなりどかっとかけることなんてそうそうありませんがなというものだ。

 

自分ひとりで全て抱え込んで、終わらせて、もし自殺が完遂していたとして、私はそれでいいと思うし、それが私の望んだ結果だから後悔はないのだけど、周りの人からしたらとんだ迷惑だと思う。

ある日突然目の前の人が亡くなりました、自殺だそうです。

と伝えられて、どんなもんかね?と、最近考えている。

 

ひとりで抱え込んで死んで、それ自体が相手にはとんでもない迷惑で、それならギリギリのところでもなんでもいいからとにかく目の前の人に助けを求めるのもアリだと思う。

その場でどういう形で相手に迷惑をかけたとしても、最終的に死んでしまうよりはずっとマシな迷惑のかけ方だと思った。

それができないから再犯してるんだと思うけど。

 

私個人としては、私ひとり死んだくらいで世界はどうにもならないし、今日明日悲しむ人はいてもいずれ普通に生活ができるようになって、お線香をあげる日も減っていくと思っている。

目の前のことをこなすことで日常は戻ってくるし、私の死なんかいずれ風化して、「もう一年経つんだ」みたいな会話になってしまうだけだと思う。

父が亡くなってからそれを強く感じるようになった。

父のいない生活に慣れ、それが当たり前となり、適応できないと思い込んでいた環境や状態にも体や心が慣れてくる。

そうなるとそれが普通にすり替わって、いつのまにか「これが普通です」と心の中に居座るようになる。

私がもしこの先何かあってまた自殺したとしても、結局みんなそうやって普通に生きていける。

私には確信がある。

みんなは大丈夫。

 

私は別に自分が死ぬこと自体を心配されたりするわけでもないし、私ひとり死んだところで何が揺らぐんだという気持ちになっているけど、それは私のひとりよがりで、思ったよりも私の死で揺らぐ人はいる、ということをここ最近は考えるようになった。

友達が多いわけでもない、人付き合いが好きなわけでもない私でも、普通に私が死んだら日常生活に支障が出る人はいる。

周りの人の気持ちを考えて想像したところで分からないけれど、私みたいな人間なことを大切に(なのか?)思っている人は私が思っているよりもいるんじゃないかな、と思うようになった。

 

それでも私には、ドラマや映画のワンシーンみたいに、いざ死ぬ前に電話をかけられるような友人や、信頼できる人はいない。

私はそういう性格ではないし、遺書も書いたことがない。

自分がこう思っている、ということを残したくないし、知られたくない。

だから写真もほとんど撮らないし、昔撮ったものは消してしまったりもしている。

なんとなく、私は最初から存在しなかったようになるように生きている。

突然死んでも遺影がないようにしたくて、友達と写真を撮ることもない。

多分今死んだら遺影は免許証の写真になるのではないかと思う。

その写真も、いかにも幸が薄そうに写ってしまっているから、使えるか分からないけど。

 

なんとなくどこにも居場所がなくて、誰といても安らがなくて、根無し草みたいだなと思う。

住む家と家族はいてくれるし、それはありがたいけど、その家族にも気を遣っているし、友人関係では気を遣わない友人はいない。

趣味の世界にもひとりぼっちで、それを望んでいるところはあるけど、それにしてもふわふわと漂いすぎだろうと思う。

元々、幼稚園の頃から大学を辞めるまで、どこの女子グループに属しても誰といても違和感があった。

私の居場所はここではない、と思いながら我慢をするのが当たり前になっていた。

だからこの状態には慣れて、私にとって「気をつかう友人と一緒にいる」「誰といても安らがない」ということは当たり前になっている。

 

人間関係が希薄だけど、踏み込まれるのも嫌だし、他人のことまでどうこうできる器もない。

私を好いてくれる人は「救い」を求めている人が多いように思うけど、私は人を救えるほどできた人間ではないし、そういう人たちは私ができた人間ではないと知ると途端に私を攻撃したり批判するようになる。

そういうことに疲れてひとりを選んでいる面が大きい。

人間関係は希薄でいい。

もう、目の前の病んだ人を救わなければならない状態になるのはごめんだ。

私自身も病んでいる。

自殺について、こんなふうに文章を書くような人間だ。

人を救えるほどの人間ではない。

 

救いを求めてもそんなもの降ってこないから自分でなんとかするしかなくて、全てを自分ひとりで抱え込んで死んでしまうような人間だからこそ、人に救いを与えることは不可能だと思う。

全てをひとりで抱え込んでいるからこそ、病んでる人から見たらさぞかしキリッと自分の足で立った人に見えるんだろうなあ、と思うけど、それは全然違う。

何も解決しない悩みや問題を次々手に持ち、最終的にそれらが重たくなりすぎて歩けなくなる人は、キリッと自分の足で立っている人ではなく、誰にも頼れないただの不器用な人だ。

誰かに頼れるのが正しい形で、病んでいる人たちが私に救いを求めるのはとても正しい形だ。

うらやましいとも思う。

 

私は自決するし、そうしたら心配する人はいる。悲しむ人もいる。

いるけど、私のほうから「助けてほしい」と手を伸ばすことはない。

そういうときに人を頼れる力が、喉の奥から手が出るほどほしいと思うけど、自分の性格と照らし合わせて見たとき、手に入らないだろうなとも思う。

ずっとどこにも居場所がなくて、どう生きても誰といてもしっくりこなかった。

そういう人生にあまり未練がないから、最後くらい好きなようにさせてほしいのと、そう思うならそういうタイミングなのだと思う。

 

私が死んだら悲しむ人も苦しむ人もいるし、助けてもらえるなら助けてもらったほうがいいけど、私はそういうときに人を頼れない、ひとりで抱え込む不器用な自分のことがわりと好きだ。

人からよく分からないと思われる自分のこともわりと好きだし、短所は長所の裏返しだ。逆も然り。

救いを他人に委託したり求めるから、他人に期待して余計に苦しいことになる。

自分で救いを探し当てて手当てをして、自分を救い出すことに意味を見出している私には、私に救いを求めて「あれをやってほしい」「これをやってほしい」「どうしてやってくれないんだ」と訴える人は少し図々しいように感じられてしまう。

他人から救いを求められることにしんどさを感じるのは、その人の人生に対する救いそのものをまるっと委託され、それに対しての私の負担が当たり前となっていくからだ。

一部ならまだしも、人生全部は負担が重い。

人を頼ったほうがいいこともあるけど、そもそも自分ひとりでなんとかできる力を持たないと、人間として生きていくのは難しいのではないかと思う。

他力本願でなんとかなり続けるほど人生は甘くないし、それを許し続けるほど私は心やキャパが広くない。

時には、時間もお金も手間暇も全てを割いて、自分の甘ったれた部分や弱いところに向き合って、どうにかほころびを修正して生きていく作業も必要だと思う。

全面的にそれを他人に委託するとなると、他人の負担が大きすぎるし、期待値が上がる分、やってもらったことへのクレームも出やすい。

自分でやってはじめて意味が分かって前に進めることもあるし、人生そんなもんばっかりだと思う。

 

でもまあ、普通に自殺は取り返しがつかないので、そういうときは遠慮なく人に迷惑をかけて自分をなんとか保ちましょう。

自殺ダメ、ゼッタイ。

ほんと、花粉症ゼロとかCO2ゼロとか電柱ゼロとかいう前に自殺ゼロなんだよ。それを目指してくれ。