揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

なにかイメージを掴もう

 

 

 

 

拒食から低血糖になり、体重を増やしている途中。

痩せているのに、食後はぽっこりとお腹が出て、それについてかなり悩んでいる。

調べてみると、それは拒食の治療中にほぼ全員の患者がぶち当たる壁であり、拒食から普通へと戻るためには通らなければならない場所らしい。

痩せたことで腹筋が弱まっているから、食べて体重が元に戻れば徐々に腹筋がついてお腹が締まってくるらしい。

この先どうなるのかはさっぱり分からないけど、今は食べるしかないんだなあと感じる。

 

最近は食べたいだけ食べている。

当たり前だけど、人間、食べたいだけ食べたからってそんなに一気に太らない。

毎日、少しずつ少しずつ増えていく体重計を見ながら安堵する。

もう少し、もう少し頑張ったら普通に戻る。

体が普通に戻ったらとりあえず、体の不調はなくなるはず。

もう少し、もう少し。

 

過食衝動には抗わない。

欲しいだけ食べる。足りてないんだから。

ときどき「お歳暮のハムみたいになったらどうしよう」と思うこともあるけど、お歳暮のハムもなかなかよくない?と思うことにしている。

お歳暮のハムみたいになったって、私は私だよ。

おいしいハムになろうね。

 

 

話は変わるけど、今年がもう半分終わろうとしている。

いやマジか、マジで言ってんのか。

病気療養に年単位で時間がかかるのはほんといろんな意味で容赦ないな〜と思う。

容赦ない。その一言に尽きる。

自分の中に空白の時間があること、横になって1年を過ごすことにはもう慣れたつもりでいたけど、やっぱりまたこれを体験すると、なんだかんだでつらい。

今ようやく拒食の治療が始まったから、完全に心身ともに元気になるのにはここから2年近くかかるらしくて、そうやって病気に時間を食いつぶされていくことが歯痒くて仕方がない。

もう20年近くそういう人生をやってきて、慣れたつもりでいてもやっぱり悲しい。

私が至らないせいなんだけど、年相応に生きていけないこと、社会に参加できないこと、病気の状態を見て様々な選択をしなければならないこと。

毎日絶望してるわけじゃないし、私はわりと人からは「幸せそう」とか「病気に見えない」と言ってもらうことも多いんだけど、やっぱり見えないところでひとりで大泣きすることもある。

諦めた、というよりも、不可能だと答えが出たことに対して、とても大きな情熱を持っていたりすることに気づいて、それを「不可能だ」とすっぱり切り捨てることは難しい。

それでも食べないと生きていけないし、結局はなにか食べてお腹を満たして、外に出て散歩して、やれることはやってしまう。

やったところで不可能は可能にならないと分かっていても、堕落し続けることがどうしてもできなくて、頑張ってしまう。

頑張っても私の手に入るものは、情熱が燃えたぎる「それ」ではないのに、「それ」のために頑張り続けてしまう。

心身ともに壊れるまでやり尽くして、「不可能だ」という答えが出たにも関わらず、どうしても諦めがつかないことを手に入れたくて、そういう動機で堕落し続けることができない。

往生際が悪くて、まさに私だと思う。

 

もっと言うと、誰のせいにもできなくて、誰のことも責められなくて、自分のせいにして、自分を責めて病気になってしまったことも、障害を持ったことも、まさに私らしい展開だと思う。

これほど私らしいことがこの世にあるだろうか。

私だからこの障害を持った、というような気持ちにすらなる。

認めたくないけど、これが私だ。

そして、認めたくないけど、今まで私が情熱を燃やしてきたことは、もう私にできることではない。

不可能だとはっきり答えが出た。

もうそろそろ、ずっと手放せないでいたことを手放してもいいのではないだろうか。

燃やしてきた情熱も、灰になるのを見届けたら次のものに向かう。

生きていかなければならない。

健康に、心身ともに壊れないように生きていかなければならない。

それには、今まで燃やしてきた情熱はここで終わりにして、次に夢中になれるものを見つけたほうがいい。

終わりははじまり。

また何か好きなことが見つかるよ。

 

誰かに責任転嫁できないところも、誰も責められないところも、それが原因で病気になることも、全てが私らしくておかしくなる。

いつもいつもこうだし、これからもこういうところは変わらないと思う。

もっとこうあったらいいとか、もっとこうしたいとか、そういうことも欲しくなるけど、今持っているものだけでも充分宝物みたいだ。

もうこれ以上自分のことを責めるのはやめようと思う。

むやみやたらに人のせいにしなかったことを褒めたい。

うわべだけでも人によく接したことを褒めたい。

心の中でどう思っていても、相手が嫌いでも、どんなに嫌なことをされても、相手への嫌悪や敵意を表に出さないというのはすごい特技だと思う。

そういうところをちょっとだけ、褒めてあげたいと思う。

 

小さな赤ちゃんがどんどん人間の形になるように、私も何か人ではないカタマリのような生き物としてウグウグモゴモゴ生きてきたのに、ここ最近は心が人の形になって、自分でいられることを手放しに喜べるようになった。

欠けてても、足りなくても、それでいい。

もういい。完璧になりたかったけど、完璧になんかならない。完璧なんかない。

それを教えてくれたのは前の会社の上司だけど、今思うと私に足りなかったパズルのピースをたまたま上司が持っていて、私に教えてくれたんだ。

それだけでもう、ほんとうに尊いことだと思う。

完璧なんかないし、完璧じゃなくても誰かから愛される。

私も完璧ではない誰かを愛するし、地球はそれで回っている。

持ちつ持たれつ。かな。

 

私は30年近く、完璧になることに情熱を燃やし続けていたんだなあ。

「完璧にならないと愛されない」という幼少期の誤学習から始まって、随分遠くまできてしまった。

歳も取ったし、背も伸びて大きくなった。

あんなに小さな子供だったのに、完璧にならないと愛されないなんてことを突きつけられて、さぞかし悲しかっただろう。さみしかっただろう。

2歳だった私を抱きしめてあげたい。

 

完璧にならなくてもいいことや、完璧なんかないことに気がつくまでに、随分長いこと時間がかかってしまった。

これからどうやって生きるのか、小さな自分を満たすのかはまだ分からないけど、せっかくオギャーと生まれてきたんだから、生きててよかったって思いたい。

私が生きていて辛かったのは、完璧になれないからなのだとしたら、今背負いすぎたそれを背中から下ろそう。

重荷が少しでも減ったら、またどこかに飛び立てるはず。大丈夫だよ。