上司死んでくれ、と心から思っているわけではない。
全く思っていない。
思っていないのに、ふとしたときに「上司死んでくれ」と思ってしまうことがある。
心身ともに壊してしまった原因をたどっていくと間違いなく前の仕事に行き着く、そしてそれをもっと深く探ると退職を受け入れないと言い張り続けた上司に行き着いてしまう。
私は怒る。今日も自分が思い通りに動かなかったこと、年単位での病気療養、どんどん時間が流れていくのに、その中で自分だけが取り残されているような気持ち。
それを全て自分の責任として背負わなければならない。大人だから。
誰のせいでもなく私が悪いのは当たり前なんだけど、そうやって正しく認識するほどに「上司死んでくれ」という気持ちが強くなる。
人はそんなに強くない。
事実を正しく認識し、受け止める機会が増えた。
そのぶん「上司死んでくれ」という気持ちが生まれる回数は増えた。
たぶん、事実を受け止めているだけで、いまの私は壊れてしまうギリギリのところなのだと思う。
心が無意識に壊れないように、バランスを取るために上司を責める。
本当は心にもない。死んでくれなんて思ってない。
思ってないけど、思わないと、責任転嫁をしないと、もう心が壊れるギリギリなんだと思う。
拒食の回復期は思っていたよりもずっと辛くて、心身共にこれからも回復させられるのか不安で仕方ない気持ちと、もう治らなくてもいいから痩せていたい気持ちに覆われる。
「食べて治す」という正しい方向に向き合うたびに、「上司死んでくれ」と思う。
今苦しんでいることは完全に自業自得で、誰も悪くはないのに、そうやって誰かを責めないともう心が壊れてしまいそうで怖い。
自殺未遂なんか起こした時点でもう壊れきってるけど、まだまだ壊れようと思えば壊れられる。
ガラスをパリンと割って、そのかけらを砂になるまで踏み続けるように、まだまだどんな手を使ってでも私は心を壊すことができる。
事実を事実として受け止めるたびに、どこにも正体のない「上司死んでくれ」という気持ちが浮遊霊のようにゆらゆら現れて、その浮遊霊に怒りを向けていると少し気が紛れる。
全部自業自得だし、周りの人は悪くないけど、自分の責任だと思えば思うほど人を呪いたくなるし、やっぱり自殺が一番コスパがいいという結論にたどり着く。
そこにたどり着くギリギリ手前でハンドルを切って、「上司死んでくれ」にたどり着いてしまう。
私には他責の癖があるんだと思う。
ずっと何処へも行けない、好きなこともできない、1日をまともに過ごすこともできない、そういうのを全部自分で背負うことに限界を感じている。
でも誰も悪くない、周りの人は誰も悪くない。
だから自分を責めて、至らないだとか普通にはできないだとか、体力気力がないだとか、障害があるとか、いろんな事実を飲み込む。
飲み込みすぎて気分が悪くなって嘔吐したとき、その事実がいつの間にか「上司死んでくれ」にすり替わって吐き出される。
2年前に言われたんだ、「自分を責めないで私を責めてください」って。
そのときは拒否したけど、もう、そうさせてもらわないと心がもたない。
優しい人の優しさに甘えたり、誰かのせいにしないと心が壊れてしまうような弱弱しい自分に腹が立つ。
本当は悪くない人を少しだけ責める、優しい人の優しさに甘えている。