揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

自己肯定感がない女の恋愛

 

 

 

私には、自己肯定感というものがない。

最近になって、それがどんなに自分の人生を歪めるかに気がついて、筋トレのようにコツコツと自己肯定をしていくようになった。

少しずつ「何があっても自分の味方、自分が1番大事」ということが根付いてきたように思う。

まあ、私のような人間が自己肯定感がないことを嘆いていても、私よりももっと自己肯定感がなくて、大きなバケツの底が見えて干からびているような人もいるから、自己肯定感がないないと騒ぎ立てるようなことはしないでいる。

今の私の心のバケツには、少しずつ水が溜まるようになってきているし、前みたいにバケツの底が見えてきているわけではない。

ないとは言っているものの、すこしはある。

ほんとうになくてゼロなわけではない。

 

今まで恋愛に気乗りせず、特に出会いを求めて行動したりすることも全くなかったわけだけど、これはなんでかというと「自己肯定感がない女が恋愛をしても悲惨な結果に終わるだけ」ということが目に見えていたから、というのが大きい。

他にも、「そもそも出会いの場が苦痛」「とにかく気乗りしない」みたいな要素も大きかったけど、これはまた別の話。

自己肯定感がない女が恋愛をしても悲惨な結果に終わるだけ、というのは身に染みきっていて、まず自己肯定感をつけないと先に進めないという気持ちがあって、なんだかんだで最近になってようやく自己肯定を少しずつするようになった。

この先に恋愛があるのかは分からないけど、とにかく働くにしても自己肯定感がないとどうにもならないことが多々あることに気がついてから、自分に自己肯定の魔法をかけてあげている。

 

自己肯定感がない女は恋愛において、いくら酷い扱いを受けてもそれを受け入れてしまう。

酷い扱いを自ら受け入れておいて「あの人は酷い」と他人に愚痴を吐く。

まずパートナーに「どうしてあなたはこんなに酷いことをするの?」と聞けなかったり、「あまりにも酷いから別れたい」と言えないあたり、自己肯定感が低い。

どんなに嫌なことをされても逃げないで被害者でい続けて、さらに酷いことをされても逃げないのが、自己肯定感が低い女。

私の身近にもいる。母親だ。

 

プロポーズなし、父の弟(後にウン十年もののニートと化す)と顔合わせをしないまま結婚することになった母。

結婚式では大好きな歌手の曲を使いたいと話したものの「そんなものなんでもいい」という父の一言で中学生の頃からの憧れは叶わず。

母の晴れの日は大好きな歌手の歌ではなく、式場のおまかせBGMになってしまった。

スイートテンで指輪をプレゼントされるものの、父の友人の関係の宝飾店で買った型の古いダサすぎるダイヤの指輪をプレゼントされる。

 

などなどまあ、母の結婚に関しての不幸自慢というのは聞き始めると尽きないのですが、自己肯定を始めてから「これって母親に自己肯定感がなかっただけの話なのではないだろうか?」と感じることがある。

ここまで酷い扱いを受けても離れない、というのも愛情かもしれないけど、自分がダメージを負ってまで相手に寄り添うのが愛だと私は思わない。

相手と自分の間で一番納得のいくところに落ち着くまで話し合えるのが普通の関係なのではないだろうか。

母は私の前に子供を流産しているのだけど、その原因が父の親で、離婚するつもりで実家に帰っていた時期があると話していたけど、まともな人ならそこで離婚しているはずだと私は思う。

自己肯定感がないから、やり直そうとしてしまう。

どんなに酷い扱いを受けても「でもいいところもある」なんていう言葉が出てくるのって、相手のことを冷静に見れてないというか。

離婚の決定打となるようなことが起こっても父と離婚せず、関係修復に努めた母の愛は、愛ではない別の何かだと思う。

私は常々、結婚の不幸自慢を聞かされるときに「どうして父と離婚しなかったんだろう、まだ子供がいなければいつでも別れられるのに」と不思議に思っていた。

子供が生まれてからは離婚できない理由を子供になすりつけた母は、典型的な「自己肯定感がない女」だったのではないだろうかと思う。

 

20代なのに夏でも粉を吹いた肌、社会人になってもすっぴんで出社していて同僚から化粧をするようにアドバイスされたり、早く別れたほうがいい相手との関係修復に努めたり。

ああ、母は自己肯定感がなかったんだろうな、と思う。

 

どんなに酷い仕打ちを受けても耐えるのが愛なら、どんなに酷いことをしてもいいですよね?

となってしまうので、母の愛は愛ではなくまた別の何かだったように思う。

愛だったのかもしれないけど、結局、酷い仕打ちに耐え続けた結果、父の葬儀の後、母の口からは「結婚しなければよかった」という言葉が出てきた。

やはりそうだ。

愛ではない何かで、愛のようにつながっていると、後々悲惨なことになる。

自分を慈しむのが愛なら、相手を慈しむのも愛だけど、自分が耐えるのが愛なら、相手も耐えるのが愛になってしまう。

愛ではない何かでつながることは、修復不可能な人生のダメージにもつながる。

健康な愛を知ったほうがいい。

 

私も若い時に少しだけ恋人がいた期間があったけど、自己肯定感のなさから全然好きではないのに付き合ってしまって大事故になったり、自己肯定感のなさから自分から離れてしまったりしたことがあった。

当時は親からの「早く彼氏を作れ」という圧力が酷すぎて好きでもなんでもない人と付き合ったのだけど、それもまた私の自己肯定感のなさが招いたことだと思う。

親もまた「年頃の娘は彼氏を作り結婚しないといけない」という価値観に縛られてしまって、息苦しかっただろうと思う。(だからって許さないけど)

私が結婚しない宣言を何度も何度も繰り返し反抗するようになってからは、彼氏を作れなどと言わなくなったけど、それまでは呪詛のように「彼氏、彼氏」と言ってきて気分が悪かったのを覚えている。

きっと、母は彼氏を作ることでとても満たされたのだと思う。

そりゃそうだよね、自己肯定感がない女って求められてセックスしたら心の隙間が埋まるもん。

彼氏に依存したら、心の隙間が埋まるもんね。

恋愛で求められるということは、健全な自己肯定感という土台がないことには健全に成り立たない。

だからって娘にも自分と全く同じことを求めるなんてどうなの、とも思うけど。

 

結局、健全な自己肯定感がないまま結婚をし、父からの理不尽を受け入れ続け、最終的に結婚に失敗した母を、私は反面教師にしている。

土台がないと家は建たない。

それと同じで、田んぼにいきなり家を建てることはできない。

田んぼがあるとしたら、まず石や土を入れて、地盤を整えて、土台を作ってから家を建てないと、大変なことになる。

人間関係や恋愛もそれと同じことだと思う。

健全な自己肯定感がないと、どこかで歪みが出たり、相手からの理不尽に耐え続けてしまう。

私もずっとそういう人間関係を築いてきていて、しんどくなって放り投げたことが山ほどある。

私も自己肯定感のなさから生きづらくなってしまっていて、正直この悲惨な状態で恋人を作っても、どうにもならない歪な関係にしかならないと思う。

 

何年か前に、想いを寄せてくれている人がいた。

もう相手が私のことを好きだとかはないだろうけど、もしまだ好きだと言われたら、私は断るつもりでいる。

その人は喫煙者なのだけど、私は禁煙してから受動喫煙症になってしまった。

目の前で喫煙されることを我慢さえできれば、とてもいい恋愛ができるのではないかと思ったけど、その我慢というのが一番ダメなやつだなと思う。

我慢しなくても自分が自分でいやすい人と一緒にいることを選ぼうと思う。

 

自分が我慢をする愛は、愛ではない別の何かです。

許容できることと我慢を同じにしてはいけない。

私はもう少しだけ自己肯定感をつけることに専念したい。

一人で生きるだけでも自己肯定感がなくて生きづらくて、恋愛どころではないよ。