揺れるように

ソロ活動の記録とひとりごと

💮

 

 

気温の変化で体調を崩すことが今週に入ってピタッと止まった。

それはそれでなんか怖い気もするけど。

急に不調から快調に変わると、躁転したのかと不安になる。

実際の躁転というのはこんなもんじゃないことは分かっていながらいちいち不安になるのは、私が精神疾患のデパートみたいな人間だからだと思う。常に怖いんだよ。

 

スーパーにも行けないほど気持ちが落ち込んでいたけどスーパーに行った。

美容欲も戻ってきて2日連続で髪のトリートメントをやった。

新しい化粧水を書い、クリームを買い、あれこれ試してみたりしている。

仕事こそしていないものの、ようやく人間として生活ができ始めたように思う。

自分に手間をかけること、肌に合う化粧品を使うこと、栄養バランスの取れた食事を作って食べること、寒かったらカイロやあったかインナーを身につけること、他にもいろいろあるけど、これらをひとつひとつ丁寧にやってみて、今まで私は私をおざなりにして生きてきたことを痛感している。

そりゃ恋愛もできないわけだ。

自分の生活もままならないのに他人との生活なんてとてもじゃないけれど考えられない。

これからも余程の余裕が出ない限り恋愛をすることはないと思うけど、もうそれは仕方がないなあという諦めの気持ちがある。

私は私の生活だけで手一杯だ。

手一杯というか、まだ全然足りていないし。

 

今までなんとなく「それどころじゃない」という感じで恋愛をしてこなかったけど、自分に手間をかけることを覚え始めた今、ようやくその「それどころじゃない」という気持ちがどういうものなのか具体的に分かり始めている。

なにかのコラムで「明日食う米がないのに彼氏作ろうとは思わない」という文章を読んだけど、まさにこれだと感じる。

私は今まで、「明日食う米がない」という状態だった。

1日1日過ごすことに必死で、とりあえず化粧水をつけとりあえず化粧をしとりあえず服を着ていた。

服はあるけどおしゃれ着はないし、コスメはあるけど全部肌に合っていなかった。

確かにそれどころじゃない。

でもそれは、私が悪いとかそういうわけではないと思う。

たまたまそういう病気になってしまっただけで、誰が悪いとかでもないと思っている。

これもまた人生。

私の人生をどうにかできるのは私だけだ。

今まで最善を尽くしてきて、今ようやく求めていたものが手に入り始めた。

それのなにを事情も知らない他人から責められなければならないのだろうか。

 

普通に生きるということがどういうものか、早々にレールから外れた私には分からないけど、おそらく素晴らしいものなのでしょう。

その気持ちもわかる、わかるけど、私にはどうやっても無理だという気持ちが大きい。

障害者になってしまったし、もう余力が残されていない。

今まで必死で生きてきて、もうすぐ三十路を迎えるけど、私はこれからの人生のことを余生だと思っている。

ゆるゆると国の制度を使いながら生きていくことしかできない。

働けば自殺をし、働かなければそこそこ平穏に生きていける、これを余生と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。

ときどき、「この人生で普通を求められることは多々あったけど私が普通にできたことはなかった」と感じる。

周りからの期待値が大きすぎる。

余生ではそういう人からの言葉は右から左へ受け流していこうと思う。

聞くだけ無駄なことがよくわかった。

 

自分に手間をかけることを始めて、ようやく人間としてのスタートラインに立てたような気持ちでいる。

自分に優しくしてあげること。

そうしたら自然と人にも優しくなれた。

私に足りていなかったのは恋愛ではなく、自分で自分を大切にすることだった。

正直、周りの人に流されて好きでもない人と付き合ったりしなくてよかったと思う。

私の療養生活の舵を、私は自分で切ってきたのだ。

これで愚痴も不満も言わず他責もせず、胸を張っていられる。

生きるってこういうことなんだなあと思いながら、その複雑さや難しさに立ち向かう自分をちょっとだけ誇らしく思う。

誰かになんとかしてもらう手もあったけど、そうしなかったもんね。

自分でなんとかしたかったからなんとかしたんだ。えらい。

 

最近、嵐が終わるのかというほどに生活と心が穏やかで、ブログに書く不満や愚痴、悩み事がない。

文章を書くのもなんだか億劫だ。

もしかしたら、溜め込んでいるものがなくなったのかもしれない。

まだまだ療養生活は続くし、働ける見込みもないけど、私は幸せだし、穏やかだし、体が動かないこと以外はまあなんとかやりくりできている。

家族には迷惑をかけているけど、噴出してくるような不満はないし、多分これが今の一番ベストな状態だと思う。

療養よくできましたの花丸。